オペラとフィギュアスケート | しょこらぁでのひとりごと

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羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。

 遅ればせながら
 明けましておめでとうございます。

こんな、いつ更新するともわからないブログを読みに来て下さってありがとうございます。
今年もマイペースになるかと思いますが、お付き合いいただけたら嬉しいです。


今まで散々ピアノについて偉そうなことを書いてきたが、実は私はオペラやリートが大好きで、ウィーンにいるときは毎日オペラハウスに通い、ブラームスザールのリートチクルスに通っていた。
特にシュターツオパーでは、忘れがたい体験を何度もさせてもらった。

羽生選手の演技を何度も見返しているうち、その経験の中で、何十年経った今でも私の中で光り輝いているいくつかの記憶が浮かんできた。


私の最も幸福な思い出は、ヴェネチコワ・チャップというチェコのソプラノ歌手がドボルザークの『ルサルカ』を歌ったときの記憶である。
有名なアリアがあるのだが、その時の彼女の声を、私は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
あの時、歌劇場の隅々までが、そして私自身が、彼女の豊かな声で文字通り、満たされたのだった。
『豊な』という以外、私には言葉が見つからない。その声はボヘミアの大地の豊かさを感じさせ、人間を越えた存在を感じさせた。
思い出すだけで、幸福感に包まれる、声。
多くの素晴らしいソプラノを聴いたが、あのような豊かさを感じさせられたのは、あの時だけだ。
そして彼女のルサルカは、豊かで、自然で、威厳があるが可憐でーー悲しかった。
人間でない故に王子に愛されない静かな悲しみが、こちらに迫ってくる。

ドミンゴのパリアッチ。最後へ向かってどんどん加速してゆく張り詰めた緊張感も、あの声と不可分だった。決して甘くない、あの調子の良いときのドミンゴの声と。あの畳み掛ける緊張感は、ドミンゴでなければ出せなかったろうと思う。
彼がどんどん追いつめられてゆくその心理が、聴いている私の胸を苦しくさせた。
パリアッチは下手をすると、ただ振られた情けない男の悲劇になるのだが、彼のパリアッチは、筋書きを越えた説得力があった。

クラウス。彼はその頃もうお年で、流石に下の方の音域は年齢を隠すことは出来なかったが、(確か70才代だったかと)驚くべきことに最高音域では、当時彼よりずっと若いテノール達でも決して出せないような、眩いばかりの輝きを聞かせてもらった。それは『ルチア』のエドガルドだったが、
エドガルドの熱い思い、気品、それらを出し切れないテノールも多い中、彼のそれは素晴らしくて、ずっと若いグルヴェローバのルチアが彼に恋い焦がれることが、至極当然だと思わされた。

そして、そのグルヴェローバのルチア。
ドニゼッティがこの役に込めた狂気の真価を、初めて知った。
その声の美しさは決して鈴を振るようなものではなくて、もっと滑らかで、柔らかでいながら強い、彼女以外には有り得ない声。
超絶技巧の最中でも一筋も揺るがないその声で歌われるルチアのアリアは、背筋が寒くなるほどに鬼気迫るものだった。
彼女はそれを微笑みながら歌うのだ。


これらの記憶に共通するのは、他には真似の決して出来ない素晴らしい『声』と、それを『その役ではどのように活かせばよいのか』を的確に理解し、それを遂行する卓越した技術による『表現』、プラスその『役柄への没入』がそこに有ったことである。
恐らく、その中のどれか一つでも欠けていれば、あれほどの説得力を持つことはなく、何十年も経った今日、私の心の中で輝き続けていることはなかったろうと思う。

『声』を持っていても、それをコントロールする技術がなければ、ひどいことになる。
一流のオペラ歌手は、勿論その両方を備えている。(大抵は!)
しかし、それだけでは、オペラファンを感動させることは出来ない。
声も技術もあるのに、それを聴かせることだけに喜びを感じるタイプの歌手を聴くと、私はイライラして度々卵を投げつけたくなった!
大事なのは、その声と技術で『何をどう表現するか』だろう。
私が聴きたいのは歌手○○の『声』ではなくて、歌手○○のパリアッチその人の『心』なのだ!と。
自分の演奏には、彼らの100分の1も中身はないのだが。

スケートを観ているときも、同じなのだと思う。


フィギュアスケートにおいて『声』とそれをコントロールする技術に当たる部分を、私はスケーティングだと感じている。
スケーティング自体にまず魅力がなければ、それなりに素晴らしい演技は出来るかもしれないが、人を魅了することは出来ないだろう。


まずスケーティングそのものの魅力。そして、さらにその音楽で自分が何を表現したいのか、それを明確に持っていて、尚且つそれを表現する、驚嘆させられるような技術があり、それでいてその技術へでなく、表現される感情そのものへ惹きつけられ、私の感情へ訴えてくるような演技が、私は観たいのだ。

フィギュアスケートはスポーツなのだから、そこまでの芸術性は問われるべきではない、という方も有るかもしれない。
しかし、羽生選手のスケートには、まさにそれら総てが備わっている。

一目で目を奪われるようなスケーティングの魅力、
そして、それを土台にした音楽の繊細な表現と、コロラトューラのようなスピン、ダイナミックで美しいジャンプ、ステップ。
それら全ての『技術』は、その『表現』のために使われていて、『点数』のための『技術』と感じさせるところが微塵もない。
そしてそこに込められた彼の感情が、作品全体を『表現』とすることで、此方へ迫ってくるのだ。
そういう選手が出現してしまった以上、それを評価しないということは、不可能だ。

彼が最初からそれを出来たわけではない。
彼は最初から、そこを目指していたけれども。
彼の不断の努力で勝ち得たものだ。


彼のスケートを実際観たことのある人ならば、そのスケーティングの印象を忘れることは出来ないだろう。まるで重力から解放されているかのようなスケーティング。

素晴らしい『声』にも様々な色があり、コントロールする技術があれば、どちらがより優れている、とかいうことは出来ない。しかし、所謂『声』が『有るか無いか』、ということが、歌の場合、まず大きい。どういう種類の声であれ、人を魅力するだけの声が有るか無いか、だ。

パトリックのスケーティングは素晴らしかった。
ジェイソンのスケーティングも素晴らしい。
羽生選手のスケーティングも素晴らしい。
高橋選手のスケーティングも素晴らしいと思う。
小塚選手のスケーティングも素晴らしかったと思っている。

それらは、それぞれ異なる『声』だ。

どれがより優れているか、と問うことは、無意味だと思う。

しかし、所謂『声』のーー表現によって人を魅力できるだけの豊かな声が『有る』のか『無い』のか。
それは、同じ評価には決してならない。

ここで言っておきたいのだが、スケーティングが『表現』するためのものであるならば、ディープエッジだけが良いスケーティングではない、ということだ。表現するために必要なのは、ディープエッジも、軽いタッチのスケーティングも、どちらも使えなければ意味がないだろう。
要は、多彩なエッジを使えること。
正しいエッジの部分に体重を乗せて、スピードもコントロールする事が出来ることである。
ましてや、クロスで漕いでスピードを上げ、片足になったらどんどんスピードが落ちるだけでは、良いスケーティングとは言えないし、人を魅了することは出来ない。


しかし、更にその技術へでなく、それら総てによって表現される感情そのものへ惹きつけられ、心へ訴えてくるような演技でなければ、芸術とは言えないだろう。
ホロヴィッツと言えども、その卓越した技術でもって弾いた『星条旗よ、永遠なれ』や『カルメン』は、芸術とは決して見なされなかったのだ。

『何を』表現するのか、その表現を『生み出し』、その中に没入することが同時に出来なくてはならない。
技術はあくまで、表現に奉仕するものでなければならない。

そういう演技だけが、人の心の中で何十年も輝き続けることが出来るのだと思う。




今シーズンの『序奏とロンド・カプリチオーソ』と『天と地と』は、その点からも取り分け素晴らしいと思う。
次の記事では、その『ロンド・カプリチオーソ』の演技について、詳しく採り上げたい。
(あまり遅くならないうちに書きたいと思っているが、書き上がるかどうか、、、頑張ります(笑))