序奏とロンド・カプリチオーソ その1 | しょこらぁでのひとりごと

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羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。

 NUMBER の反田さんのインタビュー、良かった。
Web記事も良かったが、紙面の方では、かなり具体的に、専門的な観点から話してくれている。
かなりガチだ。凄いなぁ、と思う。羽生選手の演技そのものに、そういう力があるからに他ならないからだ。
何より嬉しかったのは、羽生選手が『ショパンの本質』を理解している、との指摘だ。「そうなんだよ!」と、思わず心の中で叫んだ(笑)
この曲(バラード第1番)は、本当にピアニストでも悩む曲。
それだけ、中身の濃い曲でもあり、ショパンの本質の中で、ワルツなどでは提示されない複雑な部分が詰まった曲でもある。
それを演じて、ショパンの本質を理解している、とピアニストに言わしめることは、本当に凄いことだ。

首藤さんのも良かった。
なるほど、と思う。
お二人のインタビューから感じたのは、彼らが練習や本番への毎日の中で考え、追求して目指しているもの、特にその『核』と重なる部分が、羽生選手の演技の中にあった、ということだ。
これは、凄いことだと思う。
何故なら羽生選手はガチの現役のアスリートで、彼らはその芸術のトップクラスのプロなのだから。まだの方がいらしたら、是非一読をお薦めする。

さて、今日はかねてのお約束通り、羽生選手の《序奏とロンド・カプリチオーソ》について書こうと思う。

楽譜がないと解りづらいので、冒頭の部分だけ楽譜を載せる。これは勿論清塚さんの弾いているものではなくて、ヴァイオリンとピアノのバージョンだけれど。(楽譜、見えるだろうか?)





まず冒頭、『E-A(ミ-ラ)』にあわせて振り向いて左右に手を伸ばすところは、もっと穏やかな動きにななると思っていたから、意外だった。
激しさを含む手の動きと眼差し。
それは、この『序奏』の部分の静けさの裏にある熱い想いを、象徴しているかのようだ。

その後、オクターブ下がった『ミ』からの経過音(ミラドミ)の所で腰を落としてピボット。音が下がっていることと、経過音なので滑らかに次の音へ向かう性格が、そのまま動きになっている。その後の『ファ-ド』では身体は起こされて、次の裏拍を捉えて経過音への流れでのスパイラル、そして次の身体を起こす動きでこの部分の最高音の『ラ』を高く伸ばした右手が奏でる。
この間、ピボットからの出でターンした後、ずっと左足に乗ったままだ。
そしてこの『ラソファミドレ』の、『ミド』が軽いレガートスタッカートになっているところに合わせた片足でのステップの表情が、美しい。終着の音になる『レ』の所で美しくさりげなく流れるイーグル(イナバウアー?)。
このイーグルは、この『レ』の音の静かさと翳り、余韻を感じさせ、後で出て来る4Sの前のダイナミックなイーグルとは、性格が異なっている。
ここまでが最初の、大きいフレーズになる。
その間、スピードを維持するために途中で力を加えることが無いために、この長いフレーズが途切れることなく歌われる。

音楽では、言うまでもなく『音』や『拍』や『和音』はそれぞら単独で存在するのではなく、総てが絡み合った『流れ』だ。
その総てを、美しい表現で表現仕切っている。
そして、過剰な動きは一つもない。
私はこのことがとても大事だと思っている。
ここは、過剰なことが許される音楽ではないと私は感じているから。
演奏がピアノになったこと、清塚さんがそういう弾き方をしていることで、ここでは『暗闇の中の孤独』を感じさせられる。
厳しい孤独に、過剰な表現は合わない。
洗練された動きの美しさが、孤独感を一層際だたせる。


その次の『ファラ』は、冒頭の『ミラ』に呼応するものだが、こちらは密やかに弾かれているのにあわせて大きな振りはなく、足元で音がとられている印象だ。
ここからジャンプへの流れになるのだけれど、スピードを上げるにあたっても、羽生選手は経過音ーー例えば先程の『ファラ』の後の『ファラレファ』のような、次のポイントの音に向かう為の音の所で力を加えている印象で、音楽との力のベクトルが一致していて、心地よく感じられる。
ここは前の部分と同じメロディーだが、羽生選手は必ず足元か上半身で音を表現しつつも、前の部分とは同じようにくっきりとは表現しない。その事が次への流れへと観ている者の目を向けさせる。

そして次の美しいイーグルの後、ジャンプの所では、メロディーが前と同じ性格でありながら、和音が発展した形になっていて、清塚さんのピアノもバスをオクターブ下げて和音の深さを際だたせ、右手も一瞬オクターブで弾いて一気にドラマティックになる。
ここの清塚さんのピアノが私は凄く好きだ。
あと少しやったら浪花節になりそうな、そのギリギリ一歩手前で止めたような歌い方で、この曲の持つケレン味を感じさせつつ、しかし一線を越えず、そしてそれは一瞬で、切ない。
それが却って羽生選手の孤独の深さを感じさせるかのようなだと思う。

羽生選手が音楽を感じているのか、音楽の方が羽生選手を感じているのか?
そう思わせるほど、音楽と羽生選手自身が一つになっている。
そこで跳ばれる4Sの美しさ。
しかも、ジャンプに大きさが無ければ、この一瞬のドラマティックな音楽には合わなくなる。

それがまたイーグルに繋がって、あっという間に元の静けさに戻る。
当たり前のことだが、音楽は常に流れていて、同じ様に流れてゆく演技の中で、その音楽の一瞬の揺らぎを捉えている。見事だと思う。

その後、今度は前半ジャンプへの流れの中で、大きくクローズアップしなかった主題の変形部分を、美しい足元と手の動きで拾ってゆく。
時に強い動きが一瞬挟まれ、孤独の中の羽生選手の心の叫びがきこえるかのようで、胸が熱くなる。


話がちょっと逸れるが、このプログラムでは全体を通して、回転が、ジャンプやスピン以外でも多く入れられていると思う。
このジャンプへ向かう前後も、ツイヅル、ピボット、ツイヅル(ターン?)と、円を描く動きが重ねられている。

ロンド形式というのは、ツイでどなたかも指摘されていたが、ABACADA,,,というように、異なる性格の部分を間に挟んで、常にAの部分に戻って進む形式だ。
このプログラムでは、その間に挟まれる部分ーーB,C,Dは入れていない。
それは、バラードの時もそうだったが、それを入れてしまうと、この時間制限の中では単なる主題の羅列になってしまい、発展性が無くなるからだ。
しかし、そもそものロンド形式の性格として、常に冒頭のテーマに戻りながら、円を描くように音楽が進んでゆく、ということが印象として、ある。
ロンドという、円になって踊る踊りがあって、ロンド形式自体はそれとは関係ないとされているようだが、イメージとしては重なる部分があると思う。
この曲では、それ程その印象ーー円を描く、というーーは強くないと思うのだけれど、他のロンド形式の曲では、そういう印象を強く与えるものもある。
これは推測なのだが、おそらくジェフが、ロンド形式に対してそういう印象を持っていて、振り付けに意識的に、ピボットやツイヅルやターンのような、円を描く動きを多く入れたのではないだろうか、と私は思っている。

話が横道に逸れた。

次の突然の三十二分音符で刻まれるメロディーでは羽生選手は軽やかに細かいステップを踏んでゆき、その後の深い和音と共に連続ジャンプが跳ばれる。
ここの対比がまた素晴らしい。
またその音楽が繰り返され、今度の深い和音では、フライングからの(アラビアン?)スピンになる。
スピンへの着地で、羽生選手は膝を使って、拍をあわせるだけでなく、この印象的な和音の深さをも感じさせている。
このスピンが足替えをしないのも、私は好きだ。
(そういうルールになっていたのだったか?忘れたが)ここでは右手のトリルだけになり、足替えなしのスピンがその緊張感を増幅させていると思う。
そして、トリルが実際のロンド・カプリチオーソの主題へとばっさりと切り替わる所で、きっぱりとスピンは解かれる。

まだ序奏部分しか書けていない、、、
これ、書き終えられるのか?(笑)
取り敢えず、一旦アップします。

私はターンやステップ、スピンなどの技の名前について詳しくないので、もし間違っていたら教えていただけると有り難い。