序奏とロンド・カプリチオーソ | しょこらぁでのひとりごと

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羽生選手大好きな音楽家の独り言のメモ替わりブログです。


 羽生選手から素晴らしいクリスマスプレゼントが届いた。


ロンカプ、、、?
ピンとこないな、、
などと思っていたことを、正直に白状する。
だからこそ、彼が何を見せてくれるか、楽しみではあったのだけれど。

私には、ロンカプと言えばヴォイオリンのヴィルティオーソを聴かせる曲、という先入観が有ったからなのだけれど、彼が目指していたものはもっともっと深かった。

常々感じていることだったが、彼はどんな音楽に対しても、先入観など持たずに、主体的に、つまり、自分がそこに何を感じるか、を大切にして正面から向き合うことが出来る人だなと思う。
彼は清塚氏に、孤独と情熱に重点をおいて欲しいと言ったという。


羽生選手はこのプログラムに、自身で述べたように、『今までの道のりの結晶』を求めたのだ。
そこにはエキシビションも、アイスショーも、そしてあのニースも含まれているのだろうと、演技を見た今なら、思う。

そしてそれは、私が想像もしなかったものを生み出した。



まず、清塚氏に感謝したい。
清塚氏の、この音楽への姿勢を、私は深く尊敬する。
彼がこの編曲と演奏にあたって、サンサーンスと羽生選手双方に、なんと真摯に向き合ったことか。

この編曲は、原曲の音楽の素晴らしさを、限られた条件の中で活かしきっている。
ピアノで演奏する良さも加味して。

そこに清塚氏本人の『色』を加えたいという欲望が、湧かなかった訳は無いだろうと思うのだが、彼はそれをしなかった。
ここでは、彼はひたすら、サンサーンスの音楽と、羽生選手のスケートそのものだけを見つめているように、私には感じられた。
その姿勢に、心からの敬意と感謝を捧げたい。

清塚氏が、羽生選手が常に、どれほど音楽そのものに対して、また、スケートに対して、そして人に対して、真摯で真剣であるか、理解して下さっているからこそだと思う。
これは、とても希有なことだ。



私は時々、音楽の流れ方をどうすべきか、行き詰まったとき、羽生選手のスケーティングを思い浮かべることがある。彼のスケートは、力によるのでなく、純粋に体重移動とエッジへのそれの乗せ方で繊細な揺らぎが生まれているので、音楽が目指すべき揺らぎと一致する。そのために、彼のスケートを頭の中で再生することは、その音楽の揺らぎをイメージとして視覚化させることが出来る。

だから、清塚氏が、編曲にあたって羽生選手の滑る姿を思い浮かべたというのは、ーーそして、そうやって生まれた音楽が羽生選手のスケートと揺らぎまでが真に一体化するのは当然の事なのだが、それは現在の羽生選手のスケート自体がそもそも音楽的だからこそ、出来ることだと言いたい。


その結果、生まれた演技。
それは、言葉で表せば『音楽との一体感』となるのかもしれないが、そんな言葉ではとても表しきれないものが、ここにはあると思う。

ここでは、羽生選手自身の感情が、サンサーンス自身のそれと重なって感じられ、それが羽生選手のものなのか、サンサーンス自身のものなのか、はたまた、もしかしたら清塚氏自身のものなのか、、、最早一体となって、見分けることが出来ない。
こんなことが、フィギュアスケートで可能だとは、思わなかった。


私は音楽がそこにあるから、フィギュアスケートが好きになった。
それがここまでの高みに到達するのを観ることが出来た。

このプログラムに関わった全ての方に、感謝したい。

そして何よりーー
羽生結弦という人に。
その存在に。

それにしても、、あなたは一体、何者なのか。