天下布武外伝2 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

Future Generation !

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   We Are Sumer Japanese・・

   Sub Title "antiJapanese の向こう側"

   Han-nichi Key Words Laboratory .

FunnyBomb.


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■日本史(ルイス・フロイス著)の嘘

   日本史に、「己(信長)を生き神とする祭典を天正10511日(信長の誕生日)に催し、庶民の参拝を強要した。」と書かれています。

   この文脈は、フロイスがイエズス会本部に送った書簡、日本史に実際記録されているものです(勿論原文ではありません)。

   学会では、これにも賛否両論が分かれます。

   筆者は、否定論に賛成していますので、否定派の視点から考えてみます。

 

   まず、フロイスの書簡の中で、信長詣でをすると、80歳の長寿を得るとか、病気が治る、富を得るとか、迷信的な信仰を強要していた事になっています。

   ここが、まずおかしいと指摘します。

   為政者としての信長の姿勢とは、余りに一致しないからです。

   また、この事実があった当時、フロイスは、九州に滞在しており、フロイス自身が直接見聞きしたものではない事。そして、この記事は本能寺の後に書かれた事などが指摘されています。

   否定論には、私も賛同します。

   宗教的紛争を平定する為、安土宗論まで催し、宗教の正常化に心血を注いでいた信長が、まさか信長教を立ち上げるとは、どうしても考えられないからです。

 

"敵は本能寺にあり" とは誰も言ってない

   よくドラマや歴史小説に出てくる「本能寺の変」において、光秀が"敵は本能寺にあり" と声高に宣言するシーンがありますが、あれも作り話です。

   情報ソースは、やはり信長没後100年に書かれた「明智軍記」です。

   第一次資料に基づくと、明智軍に従軍し、本能寺に参戦した一兵卒や傭兵、足軽の殆どは、誰を攻撃するのか、行き先が何処なのか、知らされていませんでした。明智軍が反乱軍になっていた事さえ知らずに戦列に加わっていた兵も少なくなかった様です。

   本能寺に奇襲をかける事が、全軍に知らされたのは、本能寺の直前に近づいてから重臣・斎藤利三が命を下した後の事で、光秀本人ですら、計画的な襲撃と言うよりも、最後の最後に強行に踏み切った事が伝わってきます。

   と言うのは、これは一歩間違えれば、自軍は元より一族郎党が破滅する危険性の高い賭けであり、厳重な秘密保持が必要だったからです。

   加えて、織田信忠軍が駐留する二条御所は、最初攻撃対象として包囲していなかった事。

   これは、光秀が、最初、現当主である織田信忠抹殺を計算に入れてなかったと言う事を示唆します。

   信忠を取り逃せば、信忠を中心に他の織田軍精鋭部隊が大軍勢となって我が身に立ちはだかる事は、火を見るよりも明らかで、普段から緻密な戦略の下に動く光秀らしからぬ突発的行動だからです。

 

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﹅織田家重臣年齢

   天正10年当時、光秀の歳は67歳、秀吉46歳、丹羽長秀48歳、滝川一益58歳、柴田勝家5661歳、村井貞勝70歳位、稲葉一鉄68歳。

   出典は「当代記」であり、比較的信頼に足り得ると筆者は言います。

   有力武将の年齢さえ資料によってバラバラですが、その中でも当代記が最も真実に近いと言われます。

   光秀は、今で言えば高齢者だったのです。

   戦国当時で言えば、老兵、初老とでも言われていたのでしょうか。

 

■光秀の野望説と謀反の決心

   その老兵、光秀の大仕事であった四国調略では、四国征伐の織田艦隊が結成される、凡そ一年前に、光秀は四国担当から外されており、四国征伐部隊結成の数日前には、秀吉の中国方面軍を援護すると言う仕事が唐突に舞い込んだのでした。

   しかし、その様な仕事は光秀にとって、単なる戦後の後処理程度の簡単な仕事でした。

   それよりも、四国担当を外された事の方が光秀にとっては、余程気がかりになっていました。

   自分は、また華々しく活躍できる場が訪れるのだろうか、と。

   主君、信長は佐久間信盛、林通勝など、既に老兵の左遷を断行し、織田家中の刷新を徹底しています。

   自分も佐久間、林と同じ運命をたどるのか、その時、妻子、一族郎党の運命はどうなるのか。

   自分が、老齢を理由に隠居を申し出たら、信長は、息子十五郎丸(13歳)を取り立ててくれるだろうか。

   光秀は、同じ織田方の武将、細川(長岡)藤孝に宛てた手紙の中で次の様な事を書いています。

   自分が、第一線から退いたら、恩賞は安堵されず丹波一国はおろか、城の一つさえ息子には残してやれない。

   自分は、畿内、近国が治ったら隠居して、後は息子に任せるなどと。

   諸説ありますが、実際、本能寺を実行した後の光秀に、その後の政権運営の野心はなかったのではないかと言うのが、大筋の見方となっています。

   ここまでは、非常に謙虚な内容ばかりで、本能寺などと言う大それた政変を起こす前触れを感じる要素は見当たりません。

   この文面から、光秀が己の利己的野望の為に謀反を起こした事は読み取れません。

 

   その光秀が、本能寺を決心する迄には、更に決定的な別の刺激が必要です。

   その決定的な事というのが、"長宗我部の遠戚である、重臣の斎藤利三が何がしか吹き込んだ事が原因ではないか"、と多くの信長研究者が指摘するところです。

   斎藤利三は、信長の抵抗分子の急先鋒で、生前の信長は、光秀と斎藤を何度も、引き離そうとしていたのです。

 

■歴史真実

   近年、安土城本丸跡に天皇の御幸の間(ミユキノマ)の為の建物跡らしき遺跡が発掘されました。

   天守閣よりも低い位置にあります。

   実は、それをもって、信長は「天皇を見下ろそうとしていた」「天皇を超えた存在になろうとしていた」、と言う短絡的結論が出されたと言います。

   信長を特別視し過ぎた結果の事実誤認です。

   「天皇を超えた存在となり、自己神格化を図っていた」と主張する話は、殆どがこの発掘結果を根拠としている様です。

   信長は、個性が強く、傍若無人、苛烈な性格だっただけに、周囲から恐れられていました。

   公家や僧侶の中で、信長の死を喜んでいた者が多かったのも、簡単に想像出来る事です。

   しかし、その想像をもって本能寺を朝廷謀略説に結びつけるのは、論理の飛躍以外の何者でもありません。

   「謀略説」という視点では、義昭黒幕説、秀吉黒幕説も同じです。

   実は、研究者の中でも、秀吉黒幕説の否定論はほぼ確定している様です。

   この謀略説に共通するのは、結論が最初にあって、史料をその結論に合わせて曲解していくという事です。

   イエズス会黒幕説も同じです。

   1990年代から、唱えられる様になった黒幕説は、本能寺の変の真相究明と言うテーマの再検証に刺激を与え、信長研究の大きな進捗をもたらすに至りました。

   しかし、この黒幕説も史学本来の厳密な歴史考証は、義昭黒幕説までとしか言えません。その後の黒幕関与説は、どれもこじつけや飛躍したものばかりで、本来の史学の形から遠のいていってしまったのです。

 

   これが、筆者の本能寺の変に対する検証結果です。

   結論として、言えるのは本能寺の変は、やはり明智光秀が犯人であり、「単独犯行」だったと考えるのが真っ当な判断だ、という事です。その光秀に謀反を決意させたのは、光秀の重臣、斎藤利三だったと言う事。

   秀吉黒幕説は、限りなく濡れ衣に近いと言う事。

   事実は、小説より奇なりです。

   ただ一言だけ説明したいと思います。

   光秀の本能寺の動機が、何だったのかは江戸時代から現在までの永い信長研究の歴史を以ってしても、未だ確定していません。

   唯一、長宗我部の遠戚、斎藤利三の言葉が光秀を謀反に駆り立てたと言う事です。

   では、斎藤は何を言ったのかそれは、長宗我部征伐を一刻も早く止める為に、謀反を急ぐ様に、光秀に進言した、と言う様に研究者の間では解釈されています。

 

To Be Continue

 

出典:検証本能寺の変 谷口克広著

    Wikipedia Japan、

「本能寺の変」は変だ! 明智憲三郎著

 

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆)