天下布武外伝 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   The XXX Files ・・・19th .

Future Generation !

真実と闘え・・・

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   We Are Sumer Japanese・・

   Sub Title "Anti'Japanの向こう側"

   Han-nichi Key Words Laboratory .

FunnyBomb.

 


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   本能寺の変は、日本人にとって大きな損失となる大事件だったに違いありません。

   信長が死んでいなければ、桶狭間に次ぐ第二の奇跡が起きていたかも知れないからです。

   歴史学は、第一次資料から真実を読み取っていく作業でなければなりません。

   ですが、一口に歴史資料と言っても、真実が記録されているとは限りません。

   作者の想像や事実誤認、希望、推測が織り交ぜられた資料もあるからです。

   特に、歴史的事件から何十年、何百年と経った後に書かれた資料には、作者が事件に関わっていない事も悪影響して推測や事実誤認が記述されている可能性が高いと言われます。

   第一次資料の中で、研究家から最も信頼される資料としては、事件からあまり経過していないもので、著者自身の直接見聞を書いたものを"覚書"、事件に関係した者から話を聞いて、それを書いたものを"聞書(キキガキ)"と言って、それらの条件が備わっているもので、かつ、事件当時、関係者の手で書かれた日記や書簡と言った種類のものが最も信頼性が高いと言われます。

 

   過去の大河ドラマのストーリーの中で描かれる、「光秀が丹波、近江を召し上げられた」「人質となっていた光秀の母親が処刑された」というエピソードは、"明智軍記""織田軍記(別名:総見記)"の記述を根拠としており、とても信頼に値する資料ではないと言います。

   学会がどういう見解を持っているのかは分かりません。

   明智軍記や織田軍記は、事件から100年以上経った後に編纂された書物で、所謂軍記物として執筆された内容で、所謂歴史小説的な性質の為、一次資料ではないと言われています。

   小説はノンフィクションではありませんから、歴史を題材にしていたもしても、それは史実(真実)ではないのです。

 

具体的に信頼たり得る第一次資料

   織田信長の歴史を語る上で、信頼度の高い一次資料は、凡そ次のようなものです。

﹅兼見卿記

   著者(記主)は、吉田神社の神主、吉田兼見(兼和)。神主であると同時に、信長の後押しもあり、朝廷から従三位(ジュサンミ)という官位を賜り、公卿(貴族)へと名を連ねた人物。吉田氏は、信長との交流は元より、光秀や細川藤孝との親交もありました。

﹅晴豊公記(晴豊記)

   著者は、勧修寺晴豊(カシュウジハレトヨ)という人物。資料は、内容が示唆するように、勧修寺氏の日記と思われます。

   勧修寺氏も信長とは、頻繁に交流があったと言います。

﹅多聞院日記

   その名の通り、興福寺多聞院(コウフクジタモンイン)という、寺社の日記。

   著者は、多聞院という寺の院主、英俊(エイシュン)という人物。

﹅川角太閤記

   筆者は、イマイチはっきりしませんが、推測では川角三郎右衛門(カワスミサブロウエモン)と言う人物です。成立は、本能寺から約40年後の1621年(元和7)です。

   信長公記の後を受けて史実を綴ろうとしたもので、秀吉の太閤記とは関係がないとの事です。本能寺に関する記事は、明智旧臣からの伝聞を元にしており、信頼度は高いとされますが、それ以外の記事は間違いの可能性も多々あると言われます。

 

   なお、これらは、川角太閤記を除いて、本能寺の変が勃発した天正10年(1582に近い時期にまとめられており、明智軍記や織田軍記よりも、信頼度は数段高い資料ですが、信長研究として、最も信頼され最優先される資料は、常識的に"信長公記"です。

   何故なら、"信長公記"は、信長の側近だった太田牛一氏が書いた記録だからです。

 

■本能寺までの光秀動き

   光秀が、家康接待を命じられたのは、天正10年(1582514の事です。

   家康は、515に安土城に到着します。

   光秀は、京都、堺からおびただしい量の珍味を取り寄せて、贅を尽くした素晴らしい接待を行います。

   その料理が腐っていたから、信長が激怒し、光秀が、家康接待役を外されたなどと言う物語は虚構だと言う事です。

   その矢先、信長の元に備中高松城を包囲した秀吉から文が届きます。

   それを見た信長は、"わしが中国まで出馬して毛利軍を蹴散らし、その勢いで九州まで攻め込もう" と宣言します。

注:信長様の言っているのは、Chinaでも北京でもありません。世界に一つだけのJapanese の中国地方の事です(Funny Bomb)。

   光秀は、家康接待の任務を解かれ安土城から自身の居城、坂本城(現・滋賀県大津市)に戻ります。

   ここまでのあらすじは、凡そ事実とされる内容です。

   光秀は、坂本城で九泊過ごします。

   526、光秀は、坂本城を出発し、亀山(京都)に移動します。

   527、亀山城(別名:亀岡城)を出発し愛宕山(アタゴヤマ・現・京都)に入山します。

   愛宕山には、修験場(シュゲンジョウ)で名高い愛宕神社があります。神社に立ち寄った光秀は、ここでくじを引きます。

   愛宕山で一泊した光秀は、翌日、あの有名な連歌(レンガ)の会を開きます。

   有名な、愛宕百韻(ヒャクイン)、俳句を詠む催事です。

   「ときは今、天(アメ)が下しる五月かな」。と光秀は詠みます。

   これは、「土岐氏の一族である自分が天下を治めるべき5月である」と言う様に解釈されています。

   この時に、謀反を決意したと言う史実は、ほぼ間違いないと言われます。

 

   その後、光秀は一旦亀山城に戻ります。

   本能寺の前日、6116時。

   光秀は、主な家臣達に、次の様に伝えます。

   「京都にいる森蘭丸より知らせがあった。出陣の用意が出来たなら、馬や兵の様子を見たいと上様(信長)がおっしゃっている。これから陣容を整えて出発する。」

   光秀は、亀山城を出発します。

   本能寺当日、62を迎えます。

 

   本能寺に到着する前、光秀は自軍に訓示しています。

   「今日より我が殿は天下様におなりになる。下々の者、草履取りの者達まで勇み喜ぶが良い。もし、討死しても、あと職については少しも心配する事はない。手柄の次第によって処遇の高下を決めよう。」と。

   本能寺に近づくと、明智重臣の斎藤利三から自軍の重臣、将兵、足軽、近江衆等に命が下ります。

   「くぐり戸はいつもの通り開いている筈だ。そこをくぐって扉を押し開け、くぐる時は、のぼり、指物に気をつけよ。軍勢が町に入るのが早く進む様、町々の扉を次々と開け。・・」。

   この記録は、川角太閤記のものです。

 

■運命の日

   そして、運命の時が来ます。明智軍約1万3千人に対し、信長陣営は、僅か数百人(本能寺に百人程度。残り4〜5百人は、新当主・織田信忠含め他の宿で就寝中)でした。

   天正10年6月2日、卯の刻(午前5時〜6時)。

   奇襲を受けた信長は、目を覚まします。

   「これは謀反か。いかなる者の企てぞ。」

   蘭丸が答えます。

   「明智が者と見え申し候。」

   次にあの有名なセリフが出ます。

   「是非に及ばず❗️」。

   この"是非に及ばず" と言う意味は、解釈が難しいのですが、現代語に訳すには、意訳するしかありません。

   「光秀が背いたか。それでは仕方がない。」とか、「是非を論ずる迄もない。もはや行動あるのみ。」と言う様な意味となります。

   信長は、最初は弓を取って23度矢を放ちましたが、弦が切れてしまい、槍に持ちかえたそうです。しかし、肘に手傷を負い、反撃を諦めます。

   そして、寺に火を放つ事を家臣に命じ、御殿の奥に姿を消しました。太田牛一は、信長は女性達に逃げる様命じ、御殿奥で自決したと結んでいます。

   光秀は、ことが終わったあと本能寺と二条御所の焼け跡を発掘させ、信長、信忠の遺体を捜索しましたが、2人の遺体は発見できませんでした。

 

   発見できないと言うのは、死体が消えたとか言う意味ではなく、焼死体の為、他の死体と見分けがつかなかったと言う意味です。

・・・と、ここ迄の物語は、信長公記や川角太閤記、兼見卿記、日本史などの整合性からほぼ事実と思って間違いありません。

   光秀は、本能寺を奇襲した後、京都近辺で活動していた様子は公家達が目撃しており、日記に記録しています。

 

   言経卿記(トキツネキョウキ)、兼見卿記等です。

 

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To Be Continue

 

乱筆乱文長文をここまで読んで下さった、奇跡の人には謝意を表します(爆) 

 

出典:検証本能寺の変 谷口克広著

    Wikipedia Japan、「本能寺の変」は変だ! 明智憲三郎著