夢幻の天下布武7 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   2019年、反日国家の悪癖増長は留(トド)まる事を知らず、独善的なBig ChinaSmall ChinaSpecial Asia3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちて、互いに滅びの道を歩んでいた。

   一方G7Nationsは、更なるグローバルな弱肉強食の世界に突入しようとしていた。

   The XXX Files ・・・19th .

Future Generation !

真実と闘え・・・

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   We Are Sumer Japanese・・

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■天下布武の形と自己神格化

   それは、あらゆる権力、あらゆる宗教を超えた存在、つまり自らが神となる事でした。

   あらゆる権力と言う中には、朝廷も含まれます。つまり、天皇をも超える事・・。

   実は、この考え方が「本能寺」に繋がったのではないか、と言う評価は数多く流布されます。

   又は、そうではないとする評価も。

   信長は、正二位という官位を下賜されています。

   しかし、官職にはついていません。

   副将軍という幕府ナンバー2のポストも固辞しています。

   朝廷が武家に官位を下賜する目的の一つに、利害に反する相手を朝廷の手中に納め、懐柔させようとする考え方があります。

   そういう次元では、朝廷にとって、信長は脅威となる存在でした。

   信長が選んだ道は、自己神格化により室町幕府、そして朝廷にも代わる新しい権力を構築する事。

   「自身を神と称せよ❗️とか「自己神格化」する事によって、天皇をすら超える存在を目指したと言われるのは、あくまで信長流のレトリックだったのだと、私は思います。

   社会正義や治安維持に対し、誠実に取り組んだ信長が、傲慢な独裁国家や、信長教を樹立し、自身が神となる事など考えられないからです

   信長の言った自己神格化、又、目指した理想像とは、ローマ帝国が共和制から帝政に大転換した際に、全ての権力を一人に一局集中させたローマ皇帝の様な権威を想定していたとまでは言わなくとも、非常にそれに近かった様に思えます。

 

■もし本能寺の変が起こらなかったら

   実は、日本の歴史上、天皇陛下と一切無縁の最高権力者は存在しません。

   現代の総理大臣ですら、陛下から任命されて初めて首相となるのですから。

   信長の歴史は、評価し辛い、安易な評価は簡単(残酷な独裁者等)、ですが正しい理解に繋がらない。理解が難しいので、整理が必要です。

   筆者が、分かりやすい整理をしています。

   信長がやっていた事。

   それは、経済力に裏打ちされた軍事力をバックにして、所謂実力者となり既成の権威に取り込まれない様、細心の注意を払い、更に同時進行で"新しい権威"を構築していく事。

   ここまで書いてきた事は、全て戦にまつわる話ばかりです。

   が、しかし信長は、戦争だけしていた訳ではありません。

 

   箇条書きで表すと3つの大分類で整理できます。

❶武力行使❷朝廷外交❸自己神格化  です。

   信長が、義昭を追放した後、室町幕府は将軍不在の状態が続いていました。

   信長も、次の将軍を必要としません。

   室町幕府は、とうに存在すらありません。

   多くの幕臣達(奉行人・旗本・御家人等)は、倒幕とともに失職しました。

   彼等幕臣達は、のちに秀吉が天下統一を果たすと、豊臣家が召し抱える事になります。

   信長は、織田家の家督を、息子、信忠に既に譲り、自分は着工した安土城に転居しようとしていました。

   安土城は、金箔などぜいを尽くした神殿を天守閣に装備した、他の戦国大名の居城と比較しても考えられない造りとなっていました。

   文献によれば、信長は第3代将軍・足利義満をリスペクトしていた向きがあり、安土城の天守閣を金で装飾したのも金閣寺(鹿苑寺(ロクオンジ))からヒントを得たとも言われていますが、一つにはその神殿を、新たな権威の象徴として新政権の足掛かりにしようと考えていた様です。

 

   そもそも、信長は桶狭間で奇跡を起こしてきました。信長が、今川勢に勝つ事など、当時の状況ではあり得ない、常識的に桶狭間の時点で、信長は、討死していて当然なのです。

   もし、信長が生きていれば、摂関政治でも、朝廷直轄政治でもない、まして、織田幕府でもない、日本独自の全く新しい政治体制が生まれていたでしょう。

   筆者の分析では、本能寺を基準日として、秀吉が天下統一を果たすまでに実に9年かかっていると言います。

   つまり、過少に見積もっても、本能寺によって、6,7年は歴史が後退したと言う事が出来ます。

   それは、秀吉だったからです。

   しかし、本能寺の変によって、天下布武の可能性は夢幻(ユメマボロシ)になってしまいます。

 

 

■本能寺

   天正10年(158262に本能寺の変は起こりました。

   所謂、首謀者が明智光秀だったのか、否か、これについては今も議論の決着がついていません。

   定説では、光秀と言う事になっています。

   信長の一生は、戦ばかりに明け暮れた人生でしたし、フロイスは信長が "戦好き" だったと記録しています。

   それに加えてあの気性ですから、信長を殺したいと願う人は山程いた筈です。

   光秀単独犯行か、それとも光秀は単なる実行犯で裏の黒幕がいたのか。

 

   本能寺は、現代に当てはめれば大統領暗殺等と同じです。

   誰が犯人かと言う推論は、暗殺を実行する事によって、"誰が一番利益を受けたか"と言う推理で割り出すのが常道です。

   あのJFK暗殺犯も、そう言う推理を基に捜査されています(オズワルドの単独犯行などあり得ないからです)。

   しかし、これは単純に、秀吉、家康と言う答えが導き出されます。

   が、彼等の場合、(全く無いとは言えませんが)その動機も証拠もなく、まして信長の死が、利益に直結するものではありませんでした。

   秀吉の天下布武には、信長の死後から9年の歳月を要しているからです。

   筆者は、四国の長宗我部(チョウソカベ)が怪しいという仮説を唱えます。

   長宗我部元親は、当時、四国全体の領主となり、信長にとって急成長する巨大な敵でした。

   信長は、長宗我部と同盟を結んでいましたが、将来の火種は未然に摘み取らなければなりません。

   信長は、同盟を一方的に破棄し、四国征伐を決意。

   司令官は、三男の信孝、側近に丹羽長秀が抜擢。

   織田軍は、大阪城に召集されます。

   なんと、その織田艦隊が出撃する日に、本能寺の変が起こったのです。

 

   ドラマで、よく描かれている本能寺が勃発する迄のストーリーはこういうものです。

光秀が丹波を攻略した際、城主の降伏を受け入れる約束を取り付け、これと引き換えに光秀は母親を人質として敵に差し出したが、信長が丹波城主を殺してしまった為、光秀の母も見殺しにされた。

武田軍に勝利した祝勝会が行われた寺院で、光秀が「ワシらが骨を折った甲斐があった」と言ったのを聞いて、怒った信長が光秀の額を家臣の面前で柱に打ちつけ、恥辱を与えた。

信長が、安土城に家康を招いた祝宴の際、接待役を任された光秀が、信長から一方的に不手際があったと叱責され接待役を解任された上、秀吉の毛利攻めに合流するよう挙兵し、自身の領国を近江坂本から出雲へ国替え(左遷)する事を命じられた。

 

   これらは、実は第一次資料に基づいた史実などではないと言われます。

   根拠となった資料は、何もなく、それだけにねつ造ではないかとさえ筆者は言います。

 

   ドラマで描かれているエピソードは全くのねつ造、光秀単独犯行でもない、家康でもない、秀吉でもない、足利義昭でもないとすると、では誰が犯人なのでしょう。

   私がこれまで知らなかった説が次のものです。なお、次の説は光秀単独犯行説を完全に否定するものです。

   それは、作家・八切止夫氏(ヤギリトメオ)が書いた「信長ごろし、光秀ではない」の中で触れられたものです。

   つまり、本能寺の地下には、火縄銃に使われる火薬庫があり、イエズス会が本能寺をターゲットに大砲射撃をし、信長は本能寺諸共大爆発に巻き込まれ、木っ端微塵に吹き飛んだと言うのです。

   信長は、海外進出を狙っていた為、イエズス会の反感を買ったのが原因とされ、本能寺の近隣には、当時、南蛮寺がありました。

   その爆発で全てが終わった後に、光秀は本能寺に到着したところ、朝廷から「現場確保する様に」と言った命令を受け、現場の護衛をしていた光秀が、何故か主犯にされてしまったと言う説です。

   この説も有力説と迄は断言出来ないようです。可能性があると言う水準のものです。

   この説は、光秀が犯行時に本能寺にいなかったと言う確証が資料から読み取れないと言うのです。

 

   筆者は、こう言います。

   黒幕はいなかったのではないか、明智光秀の発作的な単独犯行だったのではないか、と。日本では、和の世界から逸脱した人間を「悪」と規定し排除すると言う原理がある、と。

   こう言う言い方が正しいかは分かりませんが、信長を「悪」と規定するならば、必要悪だったのです。

   私は、信長公は、むしろ時代の寵児で、信長や龍馬が行ったであろう規制社会の破壊行為は、時代の要求であり、誰かがやらなければならなかった「穢れ仕事」だったのではないかと思います。

 

   天正10年(158262日・・織田信長。享年49歳、満48歳。

 

 

■農家(百姓)武家凌駕する

   秀吉は、一夜城築城や、水攻めなど、頭脳戦、心理戦、謀略戦を得意としていましたが、生粋の武家の出自を持つ柴田勝家や、前田利家、佐々成政などは、頭脳戦は不得手で、槍働きと力攻めしか出来ない無骨者。

   信長は、それら部下の持つ個別の得意分野と人材そのものを上手に使い分け、競争心を煽り、一つの仕事に成功したら、すぐにもっと大きな仕事を与える、成功すれば大きな報酬を与えると言うやり方で、能力を極限まで使い倒すと言う方法を常套手段としていました。

   平たく言えば、人使いが荒いと言う事に尽きるのですが、それが、信長の人材操縦術です。

   信長の命令は、絶対的で至上命令ばかりです。

   命令に失敗すれば、一定の報いを受けますが、しかし、信長には、カリスマ性、偉大さ、絶対正義があり、そうした一切合切が織田家中での謀反や、派閥対立を未然に防ぎ、急速な天下統一を成功させたと言う見方があります。本能寺の変までは。

 

   やがて、信長の草履(ゾウリ)取りや焚き木奉行から出発し、百姓の出自を持つ秀吉が、後世の私達には"天王山"の語源ともなった"山崎の合戦"で光秀を討伐する事で、名実ともに信長の後継者となり、その後関白までのし上がり、家康の領国を三河から江戸に国替えするなど、秀吉と北の政所(マンドコロ)於袮(オネ)が紡ぎあげる太閤記が繰り広げられていきます。

   元を正せば、武士のRootsは百姓、農家なのです。

 

 

 成功も失敗も終わりではない。肝心なのは、続ける勇気だ‼️

   By Winston churchill

 

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   乱筆乱文長文を読んで下さった奇跡の方たちには感謝します。

 

出典:戦国合戦史 外川淳著

逆説の日本史 井沢元彦著

Wikipedia Japan

天下人の夢 津本陽、二木謙一著

織田信長辞典 西ケ谷恭弘著