夢幻の天下布武6 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   2019年、反日国家の悪癖増長は留(トド)まる事を知らず、独善的なBig ChinaSmall ChinaSpecial Asia3国は呪詛、憎しみ、Ttongsulに満ちて、互いに滅びの道を歩んでいた。

   一方G7 Nationsは、更なるグローバルな弱肉強食の世界に突入しようとしていた。

   The XXX Files ・・・19th .

Future Generation !

真実と闘え・・・

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   We Are Sumer Japanese・・

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■長篠の合戦 天正3年(1575年

   甲斐の武田信玄が没した後、武田家の当主は、四男勝頼でした。

   武田家の長男・義信は、自害により、既に他界しました。

   他国を侵攻しようとした父・信玄に異を唱えた為に、長男は家督から除名されていたのです。勝頼は、異例の昇格を遂げて当主となりました。

   家督は、現代ですら長男が取るのが一般的です。他界した義信は正室の子、勝頼は側室の子なのです。

   しかし、家臣達が、才能もなく、全てにおいて信玄に劣る勝頼を認めません。

   勝頼は、家臣達の信任を獲得する為にも、武勲を上げる事が必要となります。

   その為には、餌が必要です。

   勝頼は、織田軍と決戦し勝利する事で武勲を得る為、織田領の拠点となる城攻めを計画します。

   大将に才能はなくとも、それを守る軍勢は、天下の風林火山・武田騎馬軍である事に変わりはありません。

 

   信玄が急逝した後、勝頼が指揮する武田軍の出陣の回数は、返って多くなったと言います。

   前述した様に、兵農分離や楽市楽座などを生み出し、実用化しているのは信長くらいです。が、農家が兵隊を兼業していると言う状態は、どう考えても合理的ではありません。

   繁忙期の農家は田畑に付きっ切りになる為、戦地に出掛けると言う事は、田畑仕事を放り投げる事になるからです。

   田畑仕事を投げれば、年貢の収穫量も落ちます。

   しかし、時は戦国、となると戦もしなければなりません。

   兵農分離は、実は重い問題です。

   武田の当主が、信玄から勝頼になった後、武田軍の出撃回数はうなぎ登りとなり、田植えや収穫時期を無視した軍の運用を図る勝頼の影響で、武田領の経済力はみるみる痩せ細って行ったと言います。

 

   長篠城(愛知県新城市)は、徳川方の居城でした。武田勝頼は、長篠城を標的にし、軍勢を引き連れて進軍します。家康にとっては、三方ヶ原以来の因縁の対決です。

   長篠城を包囲した武田軍に対して、家康は、徳川軍単独の兵力で太刀打ちできませんでした。

   家康は、信長に援軍を要請しました。

   信長は、織田軍を率いて出陣します。兵力三万。織田軍は、徳川軍と長篠城を見渡す事ができる設楽ケ原で合流し本陣を構えます。

 

   形勢は、容易く逆転し、勝頼は長篠城を落とすどころではなくなりましたが、織田軍との決戦に気を取られていた為、主導権を敵軍に握られた事にも気付きません。

   勝頼は、織田軍との決戦を望み、武田の家臣団は長篠からの撤退を主張し、武田の本陣は意見が衝突します。

   信長は、前田利家(加賀の領主)を指揮官とする三段の鉄砲隊と長槍部隊を布陣しました。

   銃と言えば、火縄銃しかない時代です。

   それでも、合戦に銃を取り入れると言う事だけで先鋭的な方法であり、織田軍位しか鉄砲隊などは採用していない筈です。

  信長は、そういった次元では所謂"新しい物好き"とも言えます。

   信長は、良いものであれば、国産品だろうが、舶来品だろうが、倫理道徳、常識に反し、どんな批判が出ようが一切関係ない人でした。

   合戦の話に戻します。

   一丁で2発撃つのに何分かかるのか、そういう火縄銃を何百丁も横一列に並べ、それを何列も重ねる方法で、連続掃射を実現していました。

 

   武田の家臣は、完全に勝機を失ったにも関わらず、尚も決戦に執着する勝頼に抵抗できず、次々と織田軍の鉄砲隊、長槍部隊の餌食となって散っていき、合戦は、織田徳川軍の勝利となりました。

   ここに家康は、三方ヶ原以来の因縁を晴らす事が出来ました。

   勝頼の戦の仕方は、後の東條英機と同じです。決戦を挑んではならない情勢で、敵軍に決戦を挑み、予想通り大敗するという事がです。

   これは、最早、敗戦の掟と言ってもいいかも知れません。戦争は、始める方が簡単で、やめ方(引き際)の方が難しいのです。

   この後、武田家の一族郎党は緩やかに滅亡の道を辿る事になります。

 

 

■信長の「破壊創造

   従前より商業に興味のあった信長は、商業の発展が領国を発展させる事を知っていました。

   それが故に、旧態依然としたシステムを徹底して排除、と言うより破壊します。

   関所による通行税と言う、人と物の流通を阻害していたシステム。

   又、商品の販売権を独占していた同業者組合""と言うシステム。

   当時の商人を取り巻くシステムは、まず営業販売行為は、公家や寺社に申請し許可を得なければならず、次に同業者組合の座の組織に加入しなければ、商品を販売することが出来ませんでした。

   信長は、これら全てを排除し、その上で、楽市楽座を敢行したのです。

   楽市楽座そのものは、今川義元の領国でも行われていましたが、成功したのは信長ただ1人です。

   高い通行税を払わないと、城下町まで行けないのですから、挙句に、身体検査までされるんなら、庶民は、楽市には行けないよねっ・・となるのが、市民感情と言うものです。

 

   信長は、道路、橋の改修も積極的に進めました。道路の両端には、柳や桜並木を植樹させます。

   又、城下町にはどんどん他所(ヨソ)の土地の者も移住させました。

   これらの事も、旧態依然とした信玄謙信の領国では、あり得ない事でした。

   他所者(ヨソモノ)を入れる事は、スパイが潜む可能性があり、道路を拡幅整備する事は、敵の軍勢の移動を容易にする事に繋がるからです。

   しかし、信長は伝統や常識に囚われない、奇想天外で独創的なアイデアの持ち主です。

   それら旧態依然とした固定観念の逆を行く事で、自国の城下町を発展させ、経済を発展させると同時に軍資金をも調達し、流通を活性化する事で、貴重な情報が城下町を飛び交い、賑わいを創出していったのです。

   正に、「破壊と創造」を素で行う人物だったのです。

 

■出自は問題ではない、能力が問題なのだ‼️

   信長の人材操縦術に目を向けると徹底した精鋭主義、能力主義で、どの様な出自であろうが、得体の知れない怪しい人物であろうが、才能とやる気さえあれば、積極的に取り入れ、仕事を与え、成果を出せば、人並み以上の報酬を与える。

   失敗すれば、容赦なく降格させ、領地を取り上げ、左遷させると言った罰を与える。

   光秀が、清洲城での家康接待で、お役目を没収されたエピソードなどは、究極の羞恥心を煽る侮辱行為ではないでしょうか。

   当時、重臣の中で最も出世していたのは、柴田勝家でも、秀吉でも、前田利家でもありません。家康は、同盟軍や義兄弟と言う立場もあり、別枠です。

 

   明智光秀です。キンカ頭の光秀が一番の出世頭です。

   因みに明智光秀は、織田家に奉公する前は、あの足利義昭の家臣でした。

 

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   斎藤道三亡き後の、美濃攻略に際しては、秀吉が成功させた、洲俣一夜城(スノマタイチヤジョウ)が成功の鍵となりましたが、こう言った戦術は、信長の専売特許ではありませんでした。

   秀吉と、秀吉に付き従う川並衆と言う、今で言えば半グレ集団の様な素性の知れない家来がいたから実現したのです。

   蜂須賀小六率いる川並衆は、信長とは相性が合いませんでしたが、秀吉が彼等との関係を維持している事を、信長は容認していた節があります。いくら秀吉と言えども、たった一人で城を築く訳にはいかず、当然秀吉にも部下が必要となるのは信長も分かっている事なのです。

 

   信長が、秀吉を率先して使うと言う事は、武家の名門出身や、親の代からの重臣達、柴田勝家や、佐々成政、佐久間信盛よりも、平素から、下人の様にあごで使っている秀吉の方を信長は好んで使ったと言う事になります。

   すると、そこに優劣が生じます。

・・何故、信長様は、織田家の功労者である自分を差し置いて、出自も分からぬ卑しい身分のを、重用するのか・・と。

   そうした優劣をつける事で、家臣団の競争心を維持していたのです。

 

   人の持てる力に、元々優劣が存在しようとしまいと、強制的に人に評価を下す事で、優劣を生み出し、組織内に競争性を作り出す。

   それを組織維持の原動力としていく方法は、現代の競争社会でも永続的に踏襲されています。

 

■安土宗論⁉️

   日本において、仏教が関わる宗教戦争は、一見なかったかの様に思われますが、前述した様に、中世日本で法華宗と一向宗、天台宗などの血塗られた戦の歴史があるのです。

   この乱世において、民衆の日常にも深く浸透している宗教が、宗派によって互いに反目し対立する、特に法華と念仏、つまり日蓮宗と浄土宗の対立が目立っていました。

   信長は、どちらかと言うと法華経に傾斜していました。

   織田家には、南無妙法蓮華経と書かれた軍旗が飾られていたと言う逸話もあります。

   あの本能寺も法華宗の寺院でした。

   この法華宗、浄土宗の対立に決着をつけようと言うのが、安土宗論です。

   戦国時代、信長は、楽市楽座に見る様に商工業に強い関心があったと言います。

   商工業者の多くが信仰していたのが法華宗農漁民が信仰していたのが、主に一向宗です。

   天正7年(1579年安土の城下町で説法を説いていた浄土宗の僧に、法華宗の僧2人が論争を持ちかけていました。

   その浄土宗の僧は、「お前達、若輩者の知るところではない。師匠を出せ」と反論しました。これを受けて、法華宗側も名だたる大僧正を安土に派遣する事を決め、それを聞きつけた信長が、安土城で決着をつける様に公開討論会を開いたのです。

 

   宗論の会場には、立会人として織田家の者も出席しています。

   結果から言えば、この論争は浄土宗の勝利で決着しました。

   しかし、敗者である法華宗側、そしてその後の歴史学会の中で、安土宗論は八百長だったと言う説があります。

   彼等の言い分は、一つには判定者側(織田家)が最初から浄土宗が勝つ様に仕組んでいたのではないかという事。

   一つには、浄土宗が答えようのない意味不明な言葉を持ち出すから、法華宗側が返す言葉を失ったなど。

 

   この論争は、江戸の川柳でも取り上げられています。

   "宗論は、どちらが勝っても、釈迦の恥"

   安土宗論が、信長による八百長試合だったと言う批評は、しかし事実誤認です。

   それは、信長公記をはじめとする第一次資料を丁寧に見れば分かる事なので、特に触れません。

   信長が元亀元年から始まった宗教勢力との長い戦争を経て、最後には宗教側と和睦せざるを得なかったと言う苦労を考えれば、信長の宗教に対する想いが中途半端なものではない事は明々白々です。

 

   信長は、確かに一向宗を大虐殺しています。しかし、それは、宗教団体なのに武力を用いて政治介入しようとしたからであって、宗教団体に対して、卑劣な手を使って弾圧しようとすれば、その反動は半永久的に続く事を信長も承知していました。

   筆者によれば、世界史的に権力者が八百長な手段で宗教を弾圧しようと、それが何の抵抗もなく成功した事例は、恐らくないだろうと言います。

   しかし、信長は法華宗の牙を抜く事に成功しています。つまり、これは八百長ではない確たる証拠だとも言われています。

   そして、信長はあらゆる宗派を正常化し、天下に武を知らしめる天下布武の最終地に向かっていったのです。

 

参考

 

 

 

To Be Continue

 

 

出典:戦国合戦史 外川淳著

逆説の日本史 井沢元彦著

Wikipedia Japan

天下人の夢 津本陽、二木謙一著

織田信長辞典 西ケ谷恭弘著