夢幻の天下布武5 | box03のブログ

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 シュメール人はBC2千年に、メソポタミアの地から突如消えました。 彼等の行方は分かっていません。
 著者・岩田氏は、彼等の行方を突き止める為、徹底的に追跡を始めました。
 そして、著者は大胆な仮説に行き着きます。

・・『ZipanguIs Japanese 

Big Picture First. 

   Please Don't Korea❗️

   Truth ・・真実は動き始めた

   The XXX Files ・・・19th .

Future Generation !

真実と闘え・・・

Zipangu Independence Banzai⁉️

   Go Now ‼️ No Times❗️No Place⁉️

   We Are Sumer Japanese・・

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■三方ヶ原の合戦 元亀3年(1572年)

   家康は、武田軍を相手に苦戦を強いられていました。

   元々相模の北条氏康甲斐の武田信玄駿河の今川義元の間には、三国同盟が結ばれていましたが、今川は、信長が打ち取ってしまったので、同盟は壊れ始めていました。

   信長が京に上洛を果たす前、織田領となった「美濃」と、武田の領国「信濃」は国境を接していました。

   信長は、武田との直接対決を避ける為、調略として養女を信玄の四男勝頼の妻に嫁がせています。

   一方、織田軍の先鋒であり、同盟軍でもあった三河の家康は、以外に日和見主義で、特に信長が上洛を果たす前は、その色が顕著でした。

   家康は、今川義元が討ち取られた後、信玄と密約を結び、今川の残党をせん滅する作戦を実行しています。

   これにより、今川の所領だった駿河は武田の、遠江は徳川の領国となったのです。

   しかし、戦国の世は、今日の味方が明日の敵でもあります。

   武田は、駿河の実権を握ると、あっさり徳川との密約を破棄し、織田、徳川に牙をむき始めました。

   信玄も、織田軍との直接対決を避けつつ、家康を集中攻撃する事で、徳川が織田家と決裂する事を狙っていました。

   三方ヶ原での徳川軍の兵力は、武田軍の半分にも満たないものでした。織田軍は、反信長同盟との攻防戦にはまり、畿内で足止め状態となり、三方ヶ原に向かう事が出来ませんでした。

   元亀3年2月、徳川軍は、遠江・三方ヶ原(現・静岡県浜松市)で武田軍に敗れます。

   勢いに乗じた信玄は、そのまま家康の領国、三河を侵攻しようと突き進みます。

   元亀3年10月、三方ヶ原での戦勝に乗じ、武田信玄は、打倒信長の勢いを一気に強める為、石山本願寺や朝倉方に密書を送り挙兵を要請します。

   しかし、この頃、秀吉軍の奮戦により、劣勢に転じていた朝倉義景は、信玄の要請に応えず自軍を戦場から撤退させます。

   義景の家臣達は、信長の調略により一人又一人と織田軍に寝返って行き、義景と家臣団の信頼基盤は揺らぎ始めていたからです。

   信玄は、自身の要請を蹴った義景の対応に激怒したそうです。

   この時、信玄には将軍義昭からの援軍要請が脳裏にあり、目指すは京でしたが、あくまでそこは、天下を狙う戦国武将です。

   実は、信玄も義昭などは眼中になく、目指すは天下人になる事でした。

   しかし、武田軍は三河の城をいくつか攻撃すると、何故か京へ向かわず進路を甲斐に変更します。

   一説には、信玄の病状が悪化した為だと言われています。

 

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■室町時代終焉、安土桃山時代へ

   信長は、将軍義昭が反信長同盟の諸大名に密書を送っていた事を既に気付いていた筈でした。

   信長は、元号が元亀に変わってからの事、不運が続いていました。恐らく、縁起が悪い元号との印象も手伝ったのでしょう。

   元号を改めるべきだと主張し始めます。

   信長の意見には、朝廷も同意見でした。

   しかし、義昭は反対します。自分が将軍に就任した年の元号であり、そもそも義昭が信長の反対を押し切って元亀へと改元したからです。

   ここで、なおも信長と義昭は対立します。

   信長は、遂に将軍義昭という看板を捨てる事を決意し、十七条の意見書を突きつけます。この意見書は、世間に公開されており、世論としても、義昭の信用は失墜するばかりです。

   信玄は、甲斐の帰途、自軍において、息を引き取ります。

   元亀4年(1573)4月12日、武田信玄永眠

享年53歳。

   京の義昭は、まだその事実を知りません。

   義昭は、武田軍が到着するのを待って、自らも挙兵し、二条城で籠城戦に出ます。

   一方、織田軍は岐阜城を出発し、義昭のいる京へ向かいます。

   信長は、京へ入るや二条城を包囲し、義昭に最後通牒を渡します。

   "降伏するように。さもなくば、京を焼き払う"

   京の城下町は、焦土と化します。

   京に火の手が上がった5日後、義昭は降伏します。

   元亀4年(15737の事です。

  義昭は、処刑は免れましたが、京から追放されました。

   室町幕府は崩壊し、尊氏から始まり、240以上続いた足利の時代も終焉を迎えます。

   元号は、同月の内に天正に改元されました。

   天正元年(1573)7月。ここから安土桃山時代の幕が上がります。

   この後も、義昭は反信長同盟を再結成する活動を水面下で続けますが、願いは叶いませんでした。

   しかし、本能寺の変で、信長がこの世を去り、秀吉が天下統一を果たすと、義昭は、秀吉と和睦を結び、一時的に将軍職に返り咲く事となります。

 

■浅井・朝倉氏の滅亡とドクロ杯

   反信長同盟の影のフィクサー、将軍義昭が公職から退き、信長は後ろ盾を失う事にもなりますが、同時に反信長で結集した勢力の中枢が失われる事を意味するものでした。

   反信長同盟の中心勢力、武田軍、朝倉軍、浅井軍の足並みは、瞬く間に狂い始めます。

   信長は、間髪入れずに、再度北近江(現・滋賀県長浜市)に出撃します。

   織田軍が長政の居城、小谷城を包囲すると、長政は籠城戦に出ます。信長は村々を焼き払います。浅井を救援する為に、2万の大軍で北近江に馳せ参じた朝倉義景は、織田軍に包囲された小谷城を見て、救出は不可能と判断し越前に退却します。

   織田軍は、撤退する朝倉軍に追い討ちをかける為、一乗谷(現・福井市)まで追走し、柴田軍を投入、朝倉方が籠城する寺社仏閣を次々と焼き払います。

   朝倉軍は、統率を失い、敗走の最中家臣達は一人また一人と逃亡し、義景は、織田軍に翻った家臣に討伐され、自害します。

   朝倉義景、享年41歳。

   一方、北近江の戦況も佳境を迎える中、籠城戦は、通常長期戦に及ぶ事が一般的でしたが小谷城は、僅か一夜で陥落します。

   信長は、浅井朝倉軍に勝利しました。

   焼き討ちとなった小谷城からは、信長の妹お市様と、茶々、お江など三姉妹が救出されますが、信長の降伏を聞き入れない浅井親子は自害しました。

   浅井長政、享年29歳。

   例のドクロ杯と言う鬼の様な所業は、仲が良かった義弟に、信頼を裏切られた反動による憎悪だったのかも知れません。

   どの時代でも、信頼を置く人間からの裏切り行為は、憎悪を増幅させます。

   鬼の様な、と表現しましたがドクロ杯と言う慣習は、実は海賊の間では古くからある慣習でした。

   信長公記によれば、天正元年(1573)浅井朝倉連合軍を滅亡させた信長は、翌天正2年、岐阜城での新年会の折に、事実上の謀反人である浅井長政と、長政の父、そして朝倉義景らのドクロ杯を、宴の肴にした・・と言います。

   実は、信長は元々優柔不断で、温和な人格だったという分析もあります。

   が、・・逆に浅井朝倉軍との交戦をきっかけに、信長の人格は豹変していったと言う評価もあり、長政の裏切りは、信長にとって一生のトラウマとなる大事件でした。

   戦国時代、それは乱世の時代でもあります。

 

■信長の残虐性は社会腐敗の深刻度を表す

   信長がやっていた殺りく行為と言うのは、腐敗しきった社会構造を一度破壊すると言う信長流の正義の鉄槌でもあります。

   幕末、龍馬がやった、"日本洗濯する"という考え方と表現の違いはあっても、目指した方向性は一緒なのです。龍馬の場合は、あくまで血を流さない方法をひたすら追求する訳ですが。

 

   これも、奇妙な共通点と言えますが、信長の志を踏襲した、秀吉、家康と言う後継者が大きく社会構造を変革し、天下泰平の世を創造したのと同じく、龍馬の志を踏襲した桂小五郎や西郷隆盛、伊藤博文等と言う後継者が、社会構造の大転換を成し遂げた事、信長も龍馬も、破壊者として自身の抵抗勢力の恨みを買い暗殺された事まで奇妙に一致します。

   逆説的に言えば、恨み尽くされ徹底的に憎まれる程に社会正義を貫いたからこそ、国家の根本的価値観を覆す事が出来たとも言えます。

   ユダヤ人が、あらゆる異民族からアンチ・セミティズムを受ける事となったのも、社会正義を徹底して貫いた事が大きな要因となっています。

   勿論、理由は一つではありませんが。

 

   信長の場合は、戦国時代の出来事です。

   天下取りの為なら、親が子を、子が親を平気で殺す戦国時代なのですから。

   そう考えれば、暴虐的でも、傲慢でもなく、ましてや独裁的でもなかったと考える事が出来ます。

   徹底した社会構造の大転換は、正に「破壊と創造」そのものなのですから。

   むしろ、楽市楽座、兵農分離、通行税廃止、道路整備等々で、戦国の世の中は逆に開放的になり、治安が回復して活性化されていったと考えられます。

   信長の殺りくの規模は、言ってみれば日本の腐敗度が深刻だったと言う事を表している様に思えます。

   信長の独裁性が認められるのは、織田家中の内に向けられたものばかりで、前述の制札の例や、楽市楽座の方針から見ても民衆を独裁していた事例は見つかっていません。

 

   又、徹頭徹尾、全てが残虐だった訳ではありません。

   弟・信行(信勝)の謀反の際は、3度目まで改心の機会を与え、また、石山本願寺に対しても、最終的に和解し、その後は"惣赦免事"と言って一切を免罪しており、白旗を挙げた相手に対しては、一切手を出してないのですから。

 

 

To Be Continue

 

 

出典:戦国合戦史 外川淳著

逆説の日本史 井沢元彦著

Wikipedia Japan

天下人の夢 津本陽、二木謙一著

 

織田信長辞典 西ケ谷恭弘著