・・・Welcome To The Real Worlds!!!
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Sub Title "大和王権"
■第18話 継体(ケイタイ)天皇と磐井の乱
ここから日本書紀に入ります。
第21代雄略(ユウリャク)天皇の4代あと、武烈天皇が18歳で没し直系の王位継承者が途絶えます。
武烈天皇の事は、書記では、多くは語られていませんが、暴君として民を粗末に扱っていた事が記されています。
平群氏(ヘグリ)を滅ぼして権力者になった大伴金村(オオトモノカナムラ)は、事態を収拾すべく、北陸にいる応神天皇の5代目の子孫、男大迹王(オオドノオウ)に白羽の矢を立てます。
男大迹王は、説得を受けて第26代継体天皇として即位します。
この時代、朝鮮半島は益々三国の紛争が激化する情勢にありました。
新羅は、朝鮮半島における大和の地歩、任那(ミマナ)日本府に干渉していました。
任那は、西は百済、東は新羅に挟まれた、現在で言う全羅南道付近に位置していました。
百済も任那を割譲したいと申し入れてきます。
天皇は、その干渉を排除する為、6万の大軍を送ろうとします。
これを新羅と密約した北九州の豪族、磐井氏が阻み、2年間に及ぶ反乱が起きました。
「磐井の乱」の勃発です。
磐井氏は、新羅から賄賂を貰っていました。
近江の毛野臣(ケナノオミ)が総司令官となる6万の皇軍は、磐井氏の反乱軍と北九州で激突します。
事態を憂慮した大伴金村も毛野臣の皇軍に加勢すべく大連の物部麁鹿火(モノノベノ・アラカイ)に指令を出します。
麁鹿火が現在の福岡辺りで磐井氏を討伐し磐井の乱は終結しました(527年)。
磐井氏は、新羅との独自外交で権益を得ていました。
つまり磐井氏は、地方政治を運営していたと言う事が出来、中央集権化を目指し、直接統治に舵を切り始めた大和王朝と地方政府との対決でもあったと言う事が言えます。
■第19話 仏教伝来
AD552年(欽明13年)、百済の聖明王(セイメイ)から仏像一体と経典が大和に届けられます。
仏教の伝来です。
第29代欽明天皇は、扱いに戸惑いますが臣下を集め対応を議論します。
大臣だった蘇我稲目(ソガノイナメ)は、それを受け入れるべきとの見解を述べます。
大連の物部尾興(モノノベノオコシ)は、異教故、拒否すべきであると主張しました。
判断しかねた天皇は、稲目に仏教の取扱いを信託し個人的な礼拝は許可しました。
蘇我氏は、Korean系の渡来人だった為、仏教の受容に寛容的だったと考えられています。
この蘇我氏の朝鮮人説は、あくまでも未だに仮説の域を超えません。
蘇我氏の出自は、今でもはっきりしません。
確かなのは、蘇我氏の周辺には多くの中朝人の氏族が統率されていたと言う事。
そして、この時代以前に権勢を振るった葛城氏の地盤を受け継いだ氏族が蘇我氏だったと言う事だけです。
当時、朝廷が渡来人を政権の中枢に据える事はあり得なかったと言われます。
大和国内で疫病が広まった折り、物部氏は仏教が大和に伝来したからだと主張し、仏像を難波に投棄し、その寺を焼き討ちにしました。
これらの出来事は、仏教を媒介として物部氏と蘇我氏の権力闘争でもありました。
古くから、朝廷に仕え祭祠や軍事を司ってきた物部氏は、第21代雄略天皇の時代から政権の一角を占め、以降日の当たる場所を歩いて来た名門でした。
それに比べ蘇我氏は、新興勢力に過ぎません。
物部家は、尾興から後の守屋(モリヤ)、蘇我家は、稲目から後の馬子へ世代が変わっても氏族同士の反目を続けていました。
第31代用明(ヨウメイ)天皇は、欽明天皇と蘇我馬子の妹との間に生まれた天皇です。
蘇我氏は、ここに朝廷の権力を掌握する事に成功してしまいます。
物部守屋は、反抗し天皇を公然と批判しますが、臣民の心は物部氏から離れていきます。物部氏は、武装蜂起の支度を整えます。
中央が権力闘争に傾斜していく世情の中、用明天皇が亡くなります。
物部氏は、皇位に野心を持つ穴穂部皇子(アマホベノミコ)を担いで軍勢を動かしましたが、蘇我氏は皇子を抹殺し、反乱を未然に防ぎました。
蘇我氏の軍勢には用明天皇の子である、厩戸皇子(ウマヤト(ド)・ノミコ)、後の聖徳太子も連なっていました。
厩戸(聖徳太子)は、仏に誓います。
「もし勝たせてくれたら、守護神四天王の為に寺を建てましょう」と。
願いは成就し、蘇我軍は戦に勝利し、物部氏は滅びました。
■最終話 推古天皇と聖徳太子
独裁的権力を我が手にした蘇我馬子は、第30代敏達(ビタツ)天皇の皇后だった炊屋姫(カシキヤヒメ)と計り、馬子の甥、崇峻(スシュン)天皇として擁立します。
しかし、崇峻は彼等に反抗的だった為、即位した5年後、彼等によって暗殺されます。
彼等は、代わりに炊屋姫を即位させてしまいます。
(親族さえも葬る蘇我氏の恐怖政治の始まりでした。後に645年の乙巳(イッシ)の変で、あの中大兄皇子と中臣鎌足らによって蘇我氏は滅ぼされています。)
この炊屋姫が、第33代推古天皇※です。
朝廷史上、初めての女性天皇誕生の瞬間でした。
注※お茶を濁す様ですが、「初めての女性天皇」と言う言い方は、公的資料で確認できる初めての女性天皇と言う事になります・・・
推古天皇は、蘇我氏の血を引く聖徳太子を摂政に据え政治を任せました。
太子は、推古天皇の甥で、天皇は太子を皇太子にしました。
聖徳太子は、官僚制度を確立する為、「冠位十二階」(603年)の制定や、「17条憲法」(604年)の発布、「遣隋使」の派遣(600年~618年)等を行います。
第21代雄略天皇の時から数えて約130年間、大和は支那と断交していました。
遣隋使派遣は、支那との国交回復を図る政策でもあったのです。
余談ですが、支那の王朝が隋から唐に変わった後は、更に遣唐使が派遣されましたが、遣隋使、遣唐使は明確に第一次資料によって朝貢使である事が記録されています。
朝貢とは、中華圏(支那)の外側にある夷狄(化外の地・野蛮な未開の地と言う意味で、方角に分類して東夷(Tohi)・西戎(Seyjuw)・北狄(Hokuteki)・南蛮(Nanban)と言って蔑視される。日本は東夷に当たる)が支那に貢物を差し出して、配下となる意思を示す行為です。
当時は、朝鮮三国や琉球王国も朝貢外交を行なっていましたが、先日倒れた韓国の朴槿恵政権は現代においてさえ、明確に朝貢外交を行なっていた事が分かります。
現代支那・中共との反日共闘と言う形態で。
推古天皇治世から始まった朝貢使節団派遣は、半島情勢の悪化に伴い、後に「新羅に唐」が「百済に倭国(大和)」が付いて対峙する「白村江の戦い(天智天皇治世663年)」が勃発した事もあり徐々に廃止されました。
聖徳太子は、仏教を政治に結びつけ、法隆寺を建設し、仏教文化の普及啓蒙に尽力しました。
又、女性天皇の即位は、一般論として次期男性天皇即位迄の中継ぎ役と理解されていますが、蘇我馬子にとって、推古天皇擁立は、自身の独裁体制を維持する為だったと伝えられます。
この推古天皇の治世(593年即位)から約100年間を飛鳥時代と言いました。
尚、遣隋使と言えば小野妹子が有名ですが、その妹子は隋王朝へ渡る時、大和の国書を携えていました。
その国書に書かれていたのが、あの有名な「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す」と言う文句です。
隋の皇帝は、随分激昂したと言いますから、とても国交回復などと言える代物だったとは思えませんね。
※国号、国旗の起源:
又、現在の国旗、日章旗が作られたのは意外に古く、第42代文武(モンム)天皇(697年)の時だと言われますが、この頃のデザインは「白地に赤丸」ではなかったと言います。
現在の赤丸の部分は、日輪を意味しますが、それまでの錦の御旗に使用される日輪の配色はどれも「金色」が主流でした。
又、世界的に太陽の色を示すイメージは、金色や黄色が主流で、当時も赤を太陽の配色と考える人は少なかったそうです。
諸説ありますが、現在の白地に赤丸の日章旗の原型が使用されたのは、源平合戦(1180年)の際、源氏(ゲンジ)が初めて使ったと言われています。
因みに平氏の御旗は赤地だったそうです。
その源平合戦で源氏が勝利し、全国制覇を果たした事から、源氏が使用した日章旗(錦の御旗)は天下統一・勝利の象徴とされ、以来「白地に赤丸」の御旗が代々継承されてきたのです。
紅白饅頭や紅白幕、花嫁衣装、水引き等、紅白が縁起物とされてきたのも、こう言う歴史性や伝統に根拠があり、源平合戦が契機となっているとも言われます。
こうして代々受け継がれてきた日の丸は、重い歴史性を帯びた日本の伝統なのです。
Fin
乱筆乱文長文を、ここまで読んで下さった奇跡の人には謝意を表します(爆)
出典:地図と写真から見える古事記・日本書紀(山本明著)、wikipedia japan、現代語・古事記(竹田恒泰著)
To The Future