放送禁止歌、 テレビやラジオなどマスメディアの電波には乗せられない曲。
全く放送禁止の理由が理解できない曲も多いが、いったいどういう理由で誰が決めているのだろうか?
私が放送禁止歌に興味を持ったのは、大好きだった「ヨイトマケの唄」が放送禁止歌だったと知ったからです。
貧しいながらも一生懸命働いて育ててくれた両親に感謝して頑張り大人になり、自分をここまでに育ててくれた両親に感謝するこの歌がなぜ放送禁止になったのか?
どうも差別的表現が使われているからとか、土方という言葉が放送禁止用語だとか言うが、土方の何が悪いのか?
土方は駄目で土工や雑工、日雇い人夫なら良いのか?
私は土方を職業のひとつとしか捉えていませんが、土方を差別用語だという人こそ差別意識を持っているのではないでしょうか?
それよりも最近の「底辺」とか「ニート」などの言葉の方が、差別意識剥き出しのような気がします。
いったいどういう基準で放送禁止歌を決めるのか?
それが明確に書かれたものを見つけることは出来ませんでしたが、どうもこういうことのようです。
以下引用
民放では日本民間放送連盟が“要注意歌謡曲指定制度“というものを設け、それに指定された歌は3つのランクに分類され、各放送局に通達されていた。
ところが、その制度はあくまで目安で拘束力がないばかりか、システム自体消滅していると担当者は言う。
では、どうして現在も放送されない歌があるのか。それは、クレームが来た場合にそれに立ち向かう余裕がなかった放送局が価値判断の放棄、即ち臭い物には蓋をしてきたのが一番の理由だ。
つまり、歌を規制してきたのはメディア自身だったのだ! 事実、要注意歌謡曲のリストに掲載されていない『竹田の子守唄』は、被差別部落で生まれた歌らしいことが囁かれた為に、放送されない経緯があったようだ。作品のエンディング、部落差別を歌った岡林信康の『手紙』がフルコーラスで流れる。
つまり放送禁止歌というよりも放送自粛歌と言った方が良さそうですが、私の大好きな武田の子守唄はこのような歌です。
また先日このブログで紹介した岡林信康さんなどは、同和問題の被差別を歌った「手紙」や 父が靴職人という歌の設定が被差別部落の家であることを暗示しているというような理由らしい 「チューリップのアップリケ」はじめ「山谷ブルース」「流れ者」「骸骨の歌」「私たちの望むものは」「友よ」など放送禁止歌のオンパレードです。
またこの時代のフォークソングには放送禁止歌が少なくありません。
私の好きなこの歌も放送禁止歌でした。
ではなぜこれらの歌は放送禁止となったのか?
容易に想像できるのは何処かからのクレームでしょうが、その理由は次のような事ではないでしょうか。
例えばX(旧ツイッター)で「(外国の)こういう事は良い」「日本も見習うべき」とか、あるいは「日本のこういうところは改めるべき」などの投稿があると、それを否定するリプライがワッと湧きます。
最近の例では台湾の花蓮の地震で発生からわずか3時間でこのような避難所が出来たとニュースで紹介されました。
すると X(旧ツイッター)には花連を紹介して能登の被災地の支援と復興にもっと力を入れて欲しいという投稿がたくさんされました。
それに対して「お前らは(能登の)被災地のことが何も分かっていない。能登の被災者支援も避難所もしっかり行われている」とか「能登は交通事情が悪く、その中で行政は可能な限りのことをしている」というようなリプライがたくさんされました。
要するに日本最高、今が最高と思いたい人がたくさんおり、それを否定するような意見は許さんというのが今の世相ではないでしょうか。
そして今回私が取り上げた放送禁止歌に対するクレームも、「日本を汚すような歌は許さん」という事のような気がします。
(「友よ」は学生運動に対する警戒ではないかと思いますが)
しかし何事にも批判を受け入れないような社会になってしまったら、日本は問題提起も改善も進歩もなくなり、廃れてゆくばかりになってしまうのではないでしょうか。