■2.26事件
1936年(昭和11年)2月26日未明、陸軍皇道派の青年将校により起きた2.26事件。
当時陸軍には天皇による親政を望み、その為には武力を持ってしても、それを邪魔するものたちを排除すべきという皇道派と、合法的に政府に圧力をかけ自分たちの望む政治体制を実現させようという統制派の対立が続いていた。
陸軍の兵士は農村出身者が多いが当時の日本は世界恐慌(1929~1933)の影響を受け、日本経済は危機的な昭和恐慌(1930~1931)となり、特に貧しい農民の暮らしは悲惨であった。
そんな農民出身の兵士たちに同情した陸軍皇道派の将校たちは、農村地域で広範にわたる貧困をもたらしている原因は「特権階級」が人々を搾取し、天皇を欺いて権力を奪っているためであると考え、武力によって特権階級を倒し、天皇と国民を繋げる「昭和維新」を行う必要があると考えました。
皇道派青年将校らは「討奸」「君側の奸」を討たんと首相官邸、警察庁、などを襲撃し、高橋是清・蔵相、 斎藤実・内大臣 、渡辺錠太郎・陸軍教育総監らを殺害した。また海軍出の侍従長・鈴木貫太郎は安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊に襲われ、4発の銃弾を受けたが幸い命は取り留めた。
しかし重臣を殺され侍従長を撃たれた昭和天皇は怒り、鎮圧の奉勅命令が下されクーデターは失敗に終わった。
しかしこの事件以来軍部、特に陸軍の暴走は誰に止められなく、日本は戦争に向って突き進んでいった。
2.26事件についてはこちらの動画をご視聴ください。
だが2.26事件に至るまでの日本を見ると、2.26事件へのレールを引いたのは満州事変と5.15事件、そして国際社会での孤立化といっても良いのではなかろうか?
以下にその流れを書いてみます。
■南満州鉄道
1905年(明治38年)日本は日露戦争に勝利し、ポーツマス条約でロシアの東清鉄道のハルビンから大連・旅順を結ぶ支線の、長春以南の営業権を得て、1906年、満州の長春と遼東半島先端の旅順を結ぶ南満州鉄道会社(略称が満鉄)を設立して運営しました。
南満州鉄道株式会社(満鉄)は鉄道や、撫順 (ぶじゅん)・煙台 (えんだい)などの炭坑の経営を行ったが、鉄道付属地の一般行政権を付与され、また鉄道10キロメートルにつき15名の駐兵権を得て、あたかも満州の中の独立国の観を呈していました。
■満州事変
1914年~1918年(大正3年~7年)の第一次大戦は、これまでの戦争と違い戦車や飛行機など機械による戦争、最新兵器の戦いとなっており、戦争にとって工業力・技術と資源が非常に重要な物となりました。
しかし島国の日本は資源が乏しく、資源の豊富な満州は日本にとって生命線となりました。
そして1931年(昭和6年)9月18日、中国東北部に駐屯していた旧日本軍が奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の一部を爆破した柳条湖事件が起きました。
旧日本軍はこの爆破を「中国軍の犯行」とし、満州事変が始まり中国東北部を軍事占領し、 1932年(昭和7年)3月、清朝最後の皇帝 溥儀 ふぎ (宣統帝)を執政として、傀儡国家「満州国」を建国しました。
■5.15事件
■国際連盟脱退
- 日本は1931年、現地軍の関東軍が満州事変を起こしたのを機に中国への侵略を開始し、満州全土を制圧して、1932年3月に傀儡政権の満州国を建国しました。
- これに対して、中国政府は国際連盟に満州国建国の無効と日本軍の撤退を求めて提訴し、国際連盟はリットンを代表とする調査団を派遣し、日本の侵略と認定しました。
- 1933年2月、国際連盟総会はリットン調査団報告書を審議。日本の代表松岡洋右は満州国を自主的に独立した国家であると主張したが、審議の結果、反対は日本のみ、賛成が42カ国で可決された。これを受けて日本政府は1933年3月27日国際連盟脱退を通告しました。
こうして日本は孤立化の道を歩むことになりました。
そして日本国内では1936年(昭和11年)2月26日~2月29日、2.26事件が起き、以後軍部、特に陸軍の暴走は止まらなくなりました。
■盧溝橋事件・日中戦争
1937年(昭和12年)7月7日、北京郊外の‟盧溝橋”付近で日本軍と中国軍が衝突する ‟盧溝橋事件”が起き、”日中戦争”が始まりました。
■ハルノート
日本は北方地域へ進出すべきである」と唱えられていた‟北進論”。
日本は満州に続き日中戦争で支配地を広げてゆきます。
一方海軍は戦略物資を求めて‟南進政策”で東南アジアに進出します。
しかし日本の‟南進政策”は、イギリスの東南アジアにおける権益やアメリカの太平洋政策と対立するもので.、アメリカの日本に対する圧力は強まり、石油、鉄屑の対日輸出を禁止し、イギリスと防衛協定を結び、重慶政権に借款を供与し、日本への対決姿勢を強めました。
そして日米は太平洋戦争の始まる1941年(昭和16年)、開戦を回避するための交渉を同年4月16日から、日本の駐米大使野村吉三郎らとアメリカの国務長官コーデル=ハルらとの間で、約50回にわたって行いました。
そして真珠湾攻撃の直前の1941年(昭和16)11月26日にアメリカ国務長官ハルが示した対日交渉文書がハルノートです。
ハルノートという通称は戦後の極東軍事裁判頃からで、 アメリカでは1941年11月26日アメリカ提案、あるいは "Ten Points" とも呼ばれている。
内容は要約すると➀日本軍の中国大陸からの撤兵、➁南進」政策の放棄と「北部仏印」からの日本軍の撤兵、③「防共駐兵」「満州国」問題は別に話し合う(無条件ではない)というもの。
日本軍の中国と北部仏印からの全面撤退を絶対条件とし、防共駐兵と満州国については条件をつけて認めようというものです。
- 第一項「政策に関する相互宣言案」
- 一切ノ国家ノ領土保全及主権ノ不可侵原則
- 他ノ諸国ノ国内問題ニ対スル不関与ノ原則
- 通商上ノ機会及待遇ノ平等ヲ含ム平等原則
- 紛争ノ防止及平和的解決並ニ平和的方法及手続ニ依ル国際情勢改善ノ為メ国際協力及国際調停尊據ノ原則
(略)
- 第二項「合衆国政府及日本国政府の採るべき措置」
- イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案
- 仏印(フランス領インドシナ) の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保
- 日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
- 日米がアメリカの支援する諸王化相席政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)
- 英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力
- 最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始
- アメリカによる日本資産の凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結を解除
- 円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立
- 日米が第三国との間に締結したいかなる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しないことへの同意(三国同盟の事実上の空文化)
- 本協定内容の両国による推進
出典:ハルノート
“祖国のために戦った若者たちは、戦友のために死んだ”
これが表のメッセージである。
しかし、言葉になっていないもう一つのメッセージを探すとすれば、
次のようなものであるかもしれない。
“戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから”
沢木耕太郎著作『銀の森』からの引用