鈴木首相側近 迫水久常内閣書記官長の終戦秘話と8月14日の御前会議 | 夢老い人の呟き

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これまでポツダム宣言から終戦までの過程は何度か書いてきましたが、迫水久常内閣書記官長の講話を聴いたのは今回が初めてで、これまで思っていた以上に終戦への道のりは困難なものでした。

 

迫水久常内閣書記官長の音声は一番最後に載せますので、終戦までの過程をすでにご存じの方は一番最後だけどうぞ。

 

 

太平洋戦争は避けられなかったのか?

 

第二次大戦、欧州は連合国と枢軸国に分かれ戦いました。

米国は第一次世界大戦でヨーロッパ列強の対立に巻き込まれてしまったという反省の感情が国内に強く、1935年に‟中立法”が制定され、初めは中立の立場を取っていましたが、やがて民主主義の擁護の名目で、民主主義の「兵器廠」として連合国に武器を供給しました。

 

しかし参戦を嫌う国民。

全面的に参戦するには口実が必要で、真珠湾攻撃は格好の口実となり、「真珠湾を忘れるな」をスローガンとして、ルーズベルトは全面参戦しました。しかし当時日本の暗号電文はアメリカに解読されており、ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていたともいわれます。

 

 

太平洋戦争開戦前、陸軍、海軍の調査機関は各々米国の国力を調査し、共に国力(工業生産力)を日本の20倍としており、アメリカとの戦争はなんとしても避けたかったのです。

 

そこで、ここまでが南進の限界、「ここまでなら戦争は避けられる」とギリギリの南進策を立て南進しましたが、これが読み違いとなり、経済封鎖、中国からの撤退要求となり、日本は追い込まれました。

こういう国策は参謀本部(陸軍)軍令部(海軍)で立てられ、大本営政府連絡会議で決定されます。

しかし日米開戦のような重要な決定については天皇陛下臨席の御前会議で、天皇陛下が納得して決定されたという形で、御前会議において開戦が決定されました。

出典:Youtube御前会議|太平洋戦争開戦はこうして決められた

 

 

8月9日深夜からの御前会議

 

長崎に原爆が投下された8月9日に開かれた閣議・・・・・・

ポツダム宣言受諾をめぐり本土決戦を主張する阿南惟幾(あなみこれちか)陸相や陸海軍統帥部と受諾を求める東郷茂徳外相、米内(よない)光政海相らは対立し、閣議は深夜まで紛糾しました。

 

閣議で合意が得られなければ、御前会議を開くことはできません

 

しかし終戦を実現させたい鈴木貫太郎首相らは、御前会議で天皇のご聖断で決着を図ろうと考えていました。

 

このため迫水久常内閣書記官長「事前に召集する前に改めて相談するから」と偽って、参謀総長と軍令部総長から署名を得て、御前会議を招集しました

 

そしてその御前会議で天皇の聖断を仰ぎ、天皇はポツダム宣言を受諾する意志を示されました

 

この御前会議では、立憲君主として政府の決定に反対しない立場で、これまで自身の意見は述べてこなかった天皇ですが発言をし、和平を望む聖断を下しました

本土決戦と言うが一番大事な九十九里浜の防備も出来ておらず、又決戦師団の武装す武装すら不十分にて・・・・・省略・・・・之でどうして戦争に勝つことが出来るか。

勿論忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等、其等の者は忠誠を尽した人々で、それを思うと実に忍び難きものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲び奉り自分は涙をのんで、ポツダム宣言受諾に賛成する

そして10日午前3時からの閣議でポツダム宣言受諾が正式決定され、連合国側に伝えられました

 

しかし陸軍の徹底抗戦の意志は固く、ここからが困難を極めます

 

 

迫水久常内閣書記官長の終戦秘話

 

この動画は後編で、8月9日の閣議において、 「阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣がなぜ終戦に反対したのか」からはじまります。

 

阿南陸軍大臣は「もし自分が反対しなければ、陸軍は若い連中が立ち上がってクーデターを起こす。」

おそらく鈴木首相を殺すだろう。

陸軍大臣も殺すだろう。

滅茶苦茶になってしまう。

それなら自分が盾となり鈴木内閣を存続させようと考えたのであろう・・・・・・。

そういうところから始まっています。

 

 

7分30秒から: 9日-10日の御前会議は終戦賛成と本土玉砕が3対3で別れます。

そして天皇の聖断となり、昭和天皇が終戦の意志を述べました。

 

12分30秒から: 天皇制護持、国体護持ということについて述べています。ポツダム宣言を受諾するが天皇制護持、国体護持が絶対譲れない条件であることを添えて10日に連合国側に電報を打ちますが、13日まで返事がきませんでした。

じつはアメリカもこの条件で纏めることに難航していたようです。

 

13分10秒から: トルーマン大統領の手記が紹介されますが、英国、ソ連、中華民国に天皇制護持を図るが、いずれも否定的だった。しかしもし天皇制廃止ということになれば日本は戦争を止めず、さらに100万の米兵が失われるだろうと説得したとのこと。

 

しかし戦勝国が戦敗国の条件を飲んだとなると具合が悪いので、表現を検討した結果、「日本国の最終の政治の形態は、日本国民の自由に表現される意志によって決定する」という名文を考えました。 

 

ところが軍は「これは天皇よりも国民の意志が上にあるということで、もっと国体の意味を説明して修正させよ」と政府に要求します。

これで陸軍の若い兵たちは喜び、軍は「これでは戦争は止められない、9日の天皇の聖断は廃止して戦争を続けよ」となりました

 

 

8月14日の御前会議

 

16分35秒からに恐ろしいことが述べられています。

何と陸軍は大本営発表を行い、それは「皇軍新たに勅命を拝して米・英・ソ連・中華民国4ヵ国に対して戦闘を開する」というものです。

 

政府は間一髪でそれを知り、放送局に手配してそれを抑えました

もしそれが抑えられていなければ、第三の原子爆弾が東京に落ちていたかもしれません。

 

そこで鈴木総理はもう一度陛下のご聖断を仰ぐ必要があると、8月14日に、重鎮だけでは無く、全部の大臣を出席させ、御前会議が開かれました。

その席上で天皇陛下「先方の答えは決して悪意を持って言っているのではない。これでよろしいと思うから、戦争は止めるようにという言葉があり、終戦が本決まりとなりました。

 

 

ところがところが・・・・・・・

 

これでも陸軍青年将校たちは納得せず、終戦を阻止しようとクーデターを起こし、映画にもなった日本の一番長い日にと続きます。

 

 

日本の一番長い日

 

 

 

8月15日午前0時過ぎ
陸軍将校らにより玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏祇情報局総裁及び放送協会職員など数名が拘束、監禁される。しかし彼らは玉音盤を持っていなかったため、宮内庁に押し入るが玉音盤は発見されない

森赳(たけし)近衛師団長らは蜂起に加わるようにと言う説得に応じず殺害される
官邸の阿南陸軍大臣の元には、畑中と志を同じくする竹下中佐が訪れ一晩中賛同を求めた。

 

8月15日午前4時30分頃
首相官邸徹底抗戦を叫ぶ佐々木大尉率いる20数名の部隊に襲われる

官邸に首相が不在だと知ると丸山町の私邸へ向かったが、鈴木は警護官に間一髪救い出された
 

8月15日未明
森赳(たけし)近衛師団長の死を知った阿南は切腹をする。

8月15日早朝
東部軍と田中大将自らが皇居に乗り込み、鎮圧される。

8月15日午前11時20分
主犯の二人が自決する。


8月15日午前11時30分過ぎ
放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止のためにスタジオに乱入しようとしたが、すぐに取り押さえられ憲兵に連行された。


8月15日正午過ぎ
ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に
玉音放送が行われ、戦争は終結

但し本当の終結は9月2日東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で日本政府全権の重光葵大本営(日本軍)全権の梅津美治朗及び連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。これにより、宣言ははじめて外交文書として固定された。