宗教と神話 日本人に民主主義は馴染まないのかな?・・ユルイ独断の社会考 | 夢老い人の呟き

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政財界の権力や国民感情に忖度し、あるいは世論を形成しようとしてぶれる日本のメディア。

報道は推定無罪の原則に立ち、公平中立でなければならないもの。

そもそも人権に関する意識が足りないのでしょうか?

近代司法の基本は推定無罪。

国際人権規約B規約”(市民的及び政治的権利に対する国際規約)第14条2項には次のように書かれています。

2 刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。 

出典:外務省HP 人権・人道

 

 

しかし大阪地検特捜部の証拠改竄が発覚し、長期拘留の末無罪となった “ 村木厚子氏事件”  で推定有罪に基づき世論を誘導し、 “なぜ「推定有罪」報道がまかり通るのか” と批判されたが、それは反省されず今も変わらない。

以下“なぜ「推定有罪」報道がまかり通るのか”より引用

 

「村木局長は容疑を否認しているという。だが、障害者を守るべき立場の厚労省幹部が違法な金もうけに加担した疑いをもたれてしまった事実は重い

「キャリア官僚の逮捕にまで発展し、事件は組織ぐるみの様相を見せている。なぜ不正までして便宜を図ったのか。何より知りたいのはそのことだ」

 

 以上は、昨年(2009年)6月16日付の朝日新聞の社説からの引用だ。村木局長とは、厚生労働省の雇用均等・児童家庭局長を務めていた村木厚子のことだ。障害者団体向け郵便の不正事件に絡んで大阪地検特捜部が村木を逮捕したのを受け、朝日は社説で彼女と厚労省を厳しく批判したわけだ。

 

 それにしても、「疑いを持たれてしまった事実は重い」とは何なのか。「仮に無実であっても、検察に疑いを持たれたら反省しなければならない」という意味なのだろうか。

 

以下省略

 

つい2日前にも“松橋事件 再審無罪確定…熊本地裁判決 地検控訴せず”という報道があったが、なぜ冤罪が生まれるか考えようとせず、警察官や検察官、裁判官の資質の問題に帰してしまうのが日本人でしょうか。

 


最近ではゴーン氏事件。

当事者の一方が反論する機会が与えられない中で、大手メディアは従軍記者といわれた朝日新聞はじめ、初めから有罪と決めつけ、「関係者によると・・・・・」と情報の出所も明らかにしない、情報に対する責任の所在など分からない、一方的なリーク情報で世論を誘導する。

しかしその中で、この社だけがルノーが日産に送った書簡を報道しました。

 

森友事件についても、この社が一番ブレていないように思います。

森友事件はこのまま終わらせてはいけないと思います。

 

 

 

近畿財務局の職員自殺まで起きた文書改竄。

学校法人森友学園への国有地売却をめぐる財務省の決裁文書改ざん問題で、 公文書変造などの疑いで告発された佐川宣寿元国税庁長官は、2018年5月に大阪地検特捜部が不起訴処分としました。

 

しかし市民グループの告発により、大阪第一検察審査会は3月29日印公文書変造・同行使罪と公用文書毀棄罪で「不起訴不当」と議決しました(議決は15日付)。

 

 

こういうことを見ると日本の民主主義にも疑問が湧いてきます。

今年は戦後74年になりますが、現在は日本の民主主義の黎明期であり、欧米の民主主義を学ぼうとしていた60年前、50年前よりも右傾化、ナショナリズム化、全体主義化しているように思います。

 

 

 

ところで民主主義の根本は「天賦人権」と「民があり国がある」という考え方だと思います。

これは “アメリカ独立宣言” にも “フランス人権宣言” にも共通しますが、人は神によって平等に作られ、人権を与えられ、その権利を追究するために国があるという考え方です。

その基となったのは人は神によって作られたと、人間よりも上位の存在、普遍的な真実を認める宗教観ではないかと思います。

 

以下 “アメリカ独立宣言”  より引用

 

われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているという こと。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づい て正当な権力を得る

 

しかし宗教心が無いといわれる日本人にはこういう考え方は理解しがたく、民主主義=多数決主義であるかのように誤解しているように思います。

これは周囲と同化しやすいと言われる日本人をさらに全体主義的な傾向に走らせ、少数の人権が守られない危険性もあると思います。

 

 

 

アメリカ人の根底にあるのがキリスト教であるとすれば、日本人の根底にあるのは儒教と古事記のような神話的歴史観。

 

いまだ日本人の考え方に影響が大きい教育勅語の根底にあるのは “古事記”(←私にも読める古事記の解説にひひ)の歴史観と、儒教の “五倫”・“五常”の道徳観、価値観でしょうか。

宗教を否定する日本人が神話を受け入れるのは何とも不思議です。

ちなみに宗教の定義はいろいろありますが、神社は宗教ですが神道は宗教ではないようです。

教育勅語

出典:教育勅語の原文と現代語訳

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名 御璽
 

現代語訳

朕が思うに、歴代の天皇が国を治められたのは、広く遠くまで道徳が行き渡り、道徳が深く厚かったからなのです。国民が忠義に厚く、よく孝行し、億兆の心を一つにして、その世代世代において美徳をなしてきたことが、我が国の国のあり方の本質であり優れた点であり、教育の根本であり核心部分でもあるのです。あなたたち国民はお父さんやお母さんに親孝行し、兄弟は仲良くし、夫婦は仲睦まじく、友人とは信じあい、他人にはうやうやしく、自分には慎み深く振る舞い、周囲の人に優しくして、学問をおさめ、仕事の技術を習うことで、智能を広く高め、徳と才能を磨いて、公共の利益を広め、世の務めを果たして、常に国の憲法を重視し、国の法律を尊びなさい。ひとたび緊急な事態が起これば、勇気を持って公に奉仕し、永遠に続く皇統の運命を助けなさい。このようなことは、ただ朕にとっての忠義心に溢れた良い国民であるのみならず、先祖から教えられた風習を明らかにものなのです。
この道徳は実に我が歴代の天皇が残した教訓であり、その子孫と国民がともに守っていくべきものであり、古くからあるが現代でも通じるもので間違いはなく、また、国内国外であっても道理に外れることのないものです。朕はあなたたち臣民とともに、よくよく心に留め、皆、その道徳を一つにしていることを切に願うものです。


 

というようなことを考えるとやはり日本人はこうなるのでしょうか。

 

しかし天賦人権論は「義務を果たさなくて良い」ということは全く関係ありません。

「人権は誰もが生まれながらにして与えられている」と考えるか、「国があり国が与えるから国民に人権がある」と考えるかの違いであって、果たすべき義務は果たさねばならないのはどちらも同じです。