那覇市内のあちこちを歩いてみて感じる(かも知れない)こと~
市内一帯は戦災によりほぼ「焼け野原」だったであろうに、
首里や真和志地区などの都市近郊は、
丘陵や河川の地形そのままに市街地が過密に雑然と連なっているのに対し…
旧市街地の中心地は、
区画整理されて(一部を除き)街並みがすっきりしていること…
沖縄戦後の米軍による土地開放の年次が原因とのこと~
都市近郊が占領後いち早く民間へ開放された一方で、
旧市街地はそれが遅くなったと云うことで…
(資料によれば)
"凡そ久茂地川を挟んだ西側は開放のタイミングが遅れた為に、
区画整理事業の実施が可能となり、
整然とした街区が誕生した。"
"逆に東側は、
国際通りを越えて首里の麓へ達する程にスプロールした街区が分厚く展開…"
と論評されていて、
その記中には、
"野放図な開放の在り方が…"とまで痛切に批評されていたりしています。
その中で、
雑然或いは整然と展開する街並みの直ぐ南隣では…
当時の沖縄民政府の直轄地「みなと村」と称われた地域がありました。
区域は、
奥武山地区を中心に、山下町(ここが「ペリー区」と称われていました)、楚辺、松尾、壷川に及び…
そこの村民は一般住民ではなく、
那覇港湾作業隊の隊員とその家族、約1万人が居住していました。
初代村長は、
国場幸太郎氏(1900~1988)…
國場組創業者で、かつての県商議所連合会会長まで務め、
当時の「沖縄財界四天王」の一人として名高い著名人でした。
で、
その「沖縄財界四天王」と親交の深かった人物に、
竹野寛才(1896~1983)と云う製糖業界の重鎮が…
(同氏がどのように「みなと村」に関与していたのかは私の調べ不足で何とも…)
第4次「沖縄製糖」の代表者…
県内製糖業界を通じての沖縄経済振興に功績大として、
昭和52年の国場幸太郎氏に続き、翌年に「県功労者」として顕彰されています。
その後「みなと村」は昭和25年に、
港湾事業が民間業者請負制になったため役目を終え、
那覇市に吸収されますが、
(ですから、この地域は第3の街区として、
何処か「山の手」の様な閑静な街並みが残っていたりしますね…)
旧那覇市との丁度境目の「みなと村」側の松尾地区、
沖縄県庁と丘を隔てた南東の一角に…
周囲の俗界とは隔離されたような空間…
そこが、
この度の記事にしようとしている竹野氏の邸宅なんですが…
まだ入りのところでダラダラと頭でっかちの文章になっていますが…
この本題は次回と云うことで…