この古地図ガイドウォークのコースからは徒歩で15分程の「山手」地区の旧泉福寺墓地に、
「三原屋殉難士之墓」
と称われる合祀墓がひっそりと佇んでいます。
この墓は、
昭和3年に当時の地元自治体の小郡町長らが発起人となり、
徳川家や毛利家の援助を得て、
「三原屋事件」で殉死した3名の幕吏を慰霊したものです。

この「三原屋事件」…
「篤姫」御一行が投宿した丁度10年後の文久3年(1863)、
下関・関門海峡で外国商船砲撃と云う過激な攘夷行動を起こした長州藩を詰問するため、
幕府から派遣された「詰問使」を、
藩の過激諸隊士の数名が襲撃し、その随行員3名を暗殺する事件が発生しました。
この「詰問使」代表の中根市之亟なる直参旗本は、
辛うじて難を逃れましたが、三田尻(現在の防府市三田尻)から出帆した船中で、
執拗に追ってきた過激諸隊士により刺殺されてしまいます。
当時の長州藩では、
「尊王攘夷」まっしぐらでしたが、
この事件を発端に、徳川幕府に対する不信感を強め、
翌年の「禁門の変」(蛤御門の変)で京都守護から長州勢が排除され、
「長州征討令」が下されるに至り、
「討幕」へと大きく方向転換することになるのです。
こんな江戸時代末期の時代のうねりを象徴する事件のあった場所…
当時の世間を驚かせ「本陣三原屋」は名を馳せた訳ですが、
その面影は何も残っていません。
山口県の要衝の地であった小郡は、
人々の往来が激しかった分、経済の浮沈の影響をまともに受け、
町全体が明治から昭和にかけての「開発」の波に呑み込まれてしまうんですね。