長州街道ガイドウォーク ~ 小郡地区⑦ | 「沖縄病」の楽しみ方…?

「沖縄病」の楽しみ方…?

空港に降り立った途端に味わうまったりとした空気感が好き…
「また来たよ…」とついニヤリとしてしまう…
先日戻ったばかりなのにもう次の訪沖のことを考えている…
そんなあなたの症状を改善? 助長? いたしましょうかね~

「津市通り」をJR新山口駅方向へ~
旧宮市屋(旅籠?)、
長井家(廻船問屋)、
旧小郡警察署跡、
旧小郡郵便局跡…
と南下すれば国道9号線と2号線の合流地点「南本町」へ…
現在は、
西中国信金小郡支店(元吉南信金本店)の場所が、
「本陣三原屋」跡です。
ここは、主に九州諸藩の大名の参勤交代や、高級幕吏などの宿泊施設でした。
小郡津市は山陽街道に点在する「宿場町」の一つでしたが、
この三原屋が「御一行」の「格式」を一手に引き受けていた訳です。
「脇本陣」の役目は、津市の「御茶屋」が担っていました。
イメージ 1
(国道9号線と2号線が合流する分岐点に位置します~本陣の遺構はありませんが、周辺には往時を偲ばせるような古めかしい建物は点在します)

ですから、
街道各地の本陣には、
歴史に名を残す人々が宿泊したことは事実なんでしょうけど、
その事実が記録されているものは中々…
本陣の「大福帳」などが現存しておれば、それは貴重な「文化財」級のものになるのでしょうが…
ここの本陣に関する記録文書は…
実はあるんです。
「大福帳」ではありませんが。
当拙記「長州街道ガイドウォーク」編の最初の記事でご紹介した、
高杉晋作の「奇兵隊」決起に呼応した討幕派諸隊に軍資金を用立ててやった「小郡宰判」の当時の代官
「林勇蔵」(1811~1899)が書き記していた多種に及ぶ日記類「林家文書」に、
その記録があるそうです。
(私自身は確認していません…)
イメージ 2
(本陣とはこのような…三原屋とは無関係の画像です)

嘉永6年(1853)9月、
薩摩藩主島津斉彬の養子・篤姫が、
将軍家輿入れのための上京途中に投宿しています。
薩摩から京・江戸への移動の道中ですから山陽街道沿いのあちこちの本陣に当然投宿しているんでしょうけど、
「林家文書」は、
当時の地方官吏が大庄屋の目線で記録したものですから、
一行を饗応するのにどれだけ費用を要し、
宰判(代官所)からどれだけ助成があったか…
などが詳細に記録されているようです。
(篤姫御一行の際の記録ではありません)
結局、本陣としての経営は「赤字」で、
「お上」からの助成に頼る経営だった訳ですが、
身を切ってでも、
それを上回る経済効果を目論み奮闘する、
山陽街道筋の人々の息遣いが聞こえるようです。

そして、
丁度その10年後の文久3年(1863)に発生した物騒な事件により、
その「本陣三原屋」は世間に名を馳せることになるのですが、
この続きは次回と云うことで…