山陽街道と石州街道の分岐点(追分)の小郡・津市地区~
ここには、
江戸末期から明治にかけ、激動の時代の中…
地元の人々も翻弄されてきた形跡があちこちに残っています。
一方、全く跡形もなく消滅した箇所も…
その「追分」から、石州街道を山口方面へ0.5㎞程北上した「柳井田」地区…
長州藩は文久3年(1863)、
関門海峡で外国商船を砲撃する「攘夷戦争」をやらかすのに先立ち、
藩庁を萩から山口へ移転させます。
その後、
四国連合艦隊から報復攻撃を受け、惨敗するに至ります。
大騒ぎの藩は、山口藩庁防衛のため、
小郡口に「柳井田関門」、三田尻口に「勝坂関門」(防府市右田地区)、など…
八方の要衝地に、関所・砲台を常設し、
外部からの出入りを警戒して各地の街道を封鎖しました。

また、
室町時代から「西のお伊勢様」として西国各地からの参拝客で繁栄していた「山口大神宮」も…
そのとばっちりを受けます。
防長(「周防」「長門」ですね)両国以外の人々は山口大神宮へ参拝することが叶わなくなりますから、
小郡宰判内の東には防府「台道」地区に、
西には小郡「山手」地区に、
「遙拝所」を新設しました。
「ここでお参りすれば、お伊勢様に参拝したことにしてやる」と云う回避場を設けた訳です。
現在も、
山手地区の遙拝所は「栄山公園」の一部として保存され、
本殿や中門、神門、灯籠が残されています。
急拵えとは言え、結構な造りで、
当日の人々の気合の入り様が伺えますね。

こうした建造物の殆んどは、
間もなく到来する「明治維新」によりその目的を終え、
各地の関門は取り除かれ、
台道の遙拝所は、灯籠が他所へ移築されただけで本体は消失しています。
いずれの場所も、
この度の「古地図ガイドウォーク」のコースからは若干離れていますが、
時間と「健脚」の持ち主の方は是非とも…