平成30年の新年を迎え~
「沖縄病専門診療所」の「処方薬」を蓄積することが叶わないまま…
身辺周囲のゴタゴタに拘っているうち、
「まちかど Bra.」の記事ばかりに注力しております。
新年のご挨拶が遅くなりました。
公私繁多ながら、
何とか頑張って記事を掲載していきますので、
どうか気長にお付き合い下さいませ…
ご来所頂ける皆様のご健勝を改めてお祈り申し上げます。
さて、
昨年の山口県は、
明治維新150年特別企画として、
県観光連盟主催の「幕末維新やまぐちデスティネーションキャンペーン」の一環で、
「古地図を片手にまちを歩こう」
と云うガイドウォークのイベントが県内各地で繰り広げられました。
その中、
「小郡」地区でも、
地域づくり協議会の部会が中心になってガイドウォークを受け持つことになった訳です。
ただ、
「観光」に相応しい古い街並みが整備されている岩国や柳井、防府、山口、萩、長府…
などに比べて格段の見劣りが…
「史蹟」と言っても、
ただ「石碑」が建っているだけとか、
宿場町の名残りと言っても、
忘却されたような古民家が改築や修繕で継ぎ接ぎのまま点在するのみ…
「観光の対象になるような場所なんて何処に…?」
と云うのが地元住民の漠然としたイメージ…
実は、
「小郡」の街は、
江戸時代の主要街道だった「山陽道」と「石州街道」が交わる交通の要所…
長州藩(萩藩)の「宰判」(さいはん…藩の郷村支配の一区域のことで一宰判に20ケ村程度、藩内には18の宰判がありました。官から「代官」が派遣され、民から「大庄屋」が配備されました)の中心地として「勘場」(かんば…所謂「代官所」ですね)が置かれた行政・司法の拠点だったんです。
ですから、
幕末には歴史を動かす事件や騒動が次々と発生した場所でもありました。
私も、
ここの地域づくり協議会の部会の端くれとして、
巻き込まれ、
翻弄されていくのですが、
暫くは、
この「古地図」を巡る様々なお話をさせて頂きたいと思います。
今後、色んな古写真や古地図をご覧頂きますが、
中には出典の(最早)不明なものもあり、
関係方面に無礼を働く場合がありますので、
「笑止千万」とご笑納下さいますれば幸いでございます…