沖縄へはもうかれこれ15年通い詰めていますが…
これまでで一番ショッキングで…
沖縄では「生と死」が背中合わせになっていると実感したのが…
石垣島でシーカヤックツアーに家族で参加して、
川平から島北部を海岸伝いに北上した折りでした~
伊土名と云う集落の近くの吹通川では、
マングローブの群生の中を遡行して、
水面に浮遊するヒルギの種を密獲したり(検疫に引っ掛かるので持ち帰りはNGらしいです)、
巨大なシジミ貝を掘り起こして騒いだりして、
お昼はジューシーおにぎりと石垣牛のステーキでまったりした後に、
更に北上してプライベートビーチのような閑静な浜辺へ漕ぎ寄ったのが、
「野底」と云う地区でした。
何の変哲も無い普通の小さなビーチなんですが、
ショップのスタッフのお兄さんに、
「子供達はダメだよ~」と案内されて行った浜辺の大岩の陰…
大岩の麓は小さな洞になっていて、
そこには何個もの素焼きの甕が並べられていて、
幾つかの破れた甕の中には…
色褪せた「シャレコウベ」が…
先ず、それが正に人間のものなのに驚いたんですが、
更に驚くのが、
そんな「代物」が人口5万人近い石垣島の片隅で放置されている事実でした。
石垣島を含めた八重山の島々では、
江戸時代末期の薩摩藩の侵攻により植民地政策を強制され、
平野部の多い八重山諸島のあちこちへ強制移住させられた人々が、
集落を形成していました。
その一つが「野底」地区なんですが、
「野底岳」に因んだ逸話「野底マーペー」は…
その当時の悲惨だった開拓の歴史を物語っていますね。
で、その「代物」と開拓村との関連性はと言えば…
そうした開拓村の幾つかは、
マラリアなどの疫病や開拓事業の失敗により「棄村」や「廃村」になるのですが、
当時の沖縄の「葬儀」の風習は(現在もその風習が守られている地区もあるやに…)、
「空葬」でしたから、
(「亡骸」は直ぐに火葬や土葬にはせず、一旦大岩やらの神聖な場所に「晒す」事から始め、何年も掛けて葬送するんですね。)
その途中で、まだお墓に納める前の「甕」の状態で、
それを守るべき「遺族」が立ち去ったり、いなくなったりして、
打ち捨てられてしまったんですね。
無念の思いや恨み辛みの「残念」が、
未だにその廃集落のあちこちを彷徨っているのでしょうか…
そんな思いが脳裏を駆け巡り、
そのビーチに休憩と雖も居座る気分はすっかり失せてしまいました。
この「甕」は「厨子甕」と称われていて、
当時の沖縄の人々の暮らしと深く関わっています。
ちょっとした洞窟(ガマ)があれば、
その奥には「厨子甕」の安置スペースが確保されていたりします。
最終的には、この「厨子甕」は歳月を経て本来の目的地である一族の「亀甲墓」へ安置される訳ですが、
それなら尚更の事、
「安置」される前の未だ「昇華」し切れていない「霊魂」が人々の生活の傍らでフワフワしているのを想像してしまうのです。

その後、子供の大学のサークルで「廃墟巡り」が流行っていると言うので、
本島の中城の城跡の上の廃ホテルを見学してみる事になって…
その廃ホテルの裏山に上ってみると、
そこには小さな祠があり、
その先に小さな拝所が…
よく観察すると竪穴式の洞窟がその拝所の隣に…
つい覗き込んでみれば暗闇の中にボーと浮かび上がったのが、
素焼きの「甕」3つ4つ~あの「厨子甕」でした。
飛び上がって逃げ下りました。
驚いて「マブイ」を落としてなければいいんですが…