PCが固まってしまって、
その回復に時間とストレスを重ね、
今夜、やっと復帰いたしました。
YAHOO! BB のセキュリティの無料バージョンアップソフトをダウンロードしようとして、
既にインストールしていた別のセキュリティソフトと干渉してしまい、
一時的に不具合になってしまったようです。
安易に「無料だから」とソフトをダウンロードしようとするとロクな事はありません。
何度も苦い思いをしているのに、
「無料」の単語に弱い中年おじさんです(悲)。
「昭和初期の京都画壇と沖縄」シリーズの有終の美を飾るべく、
私の祖母「菊野おばあちゃん」のことをお話しようとしていたのですが、
ちょっとブランクが空いてしまいました。
気を取り直してラストスパートです。
【森井龍泉と菊野おばあちゃん(その1)】
私の実家の仏壇には、
祖母の位牌の奥に、もう一つの小さな位牌が添えられています。
それを私は、母から教えて貰うまで気付いていなかったのが悔やまれてなりません。
その小さな位牌には、
俗名「森井光録」と記されています。
件の日本画家「森井龍泉」の実子です。
母が祖母から聞いた話では、彼は昭和10年頃に幼くして事故死したそうです。
母は、何度も繰り返しその話を聞かされ、その時の祖母の嘆き悲しみと落胆ぶりを感じたと言います。
祖母は、生涯を独身で全うしました。
実子もいなかったと云うことです。
何故、龍泉の子(母無し子?)を祖母が養っていたのか?
ひょっとして、彼は龍泉と祖母との間に生まれた実子だったのか?
その真相は、最早確認しようがありません。
祖母は、戦前までは岡山市内で料亭を仕切っていました。
そして、昭和12年に今の場所(児島)で新しく料理屋を新築、開業しました。
そこは「水島海岸」の東端の海水浴場のある所で、
特に夏場は海水浴客が多く、商売は繁盛していました。
その新築資金は誰が捻出していたかと言うと、
祖母は何人かの地元有力者をファンに持っており(所謂「パトロン」ですね)、
資金的な不自由はしなかったばかりでなく、
敷地は市有地を特例的に貸与されていたものでした。
営業面でも、地区の公的な会合に饗される仕出し弁当の製造は一手に引き受けていたそうですから、
そのエコ贔屓的な優遇は突出していたようです。

(龍泉 自画像)
母は8歳の時に、そんな祖母の元に(母の生家の縁戚筋として)昭和18年に養女としてやってきました。
森井龍泉は、その頃にも度々祖母の料理屋へ立ち寄り、時々泊まってもいたようで、
母は、その黒くて異様な装束の出で立ちが怖かったことをよく覚えていると言います。
「菊野おばあちゃん」のお話の後半は、次回にします。
乞うご期待?