【沖縄の画家達と日本画】
沖縄の大画伯「山田真山」(1885~1977)は、
皆さんご存知の「沖縄平和記念像」の制作者ですね。
昭和32年(1957)に制作に着手してから18年もの歳月を費やし、
原型が完成した昭和52年に92歳の執念の人生を閉じました。
制作途中では、
2度転落事故に見舞われましたが、
2度とも奇跡的に乗り越えています。
正に、この像の完成のために生きることでその人生を全うしたとも言えそうです。
画伯は、沖縄戦で長男と三男を失っており、
この像の制作だけではなく、平和に対する執念のようなものを感じさせます。

(嘉陽公民館の舞台幕~山田真山作)
画伯は、明治39年(1906)に21歳で東京美術学校に入学しています。
日本画だけでなく彫刻も専攻しました。
山田真山の後に続く日本画家としては、
沖縄美人画(泡盛の宣伝ポスターに掲載されたりしていますね)で有名な「柳光観」などがいます。
日本画の修行はいずれも東京でしており、
京都画壇との繋がりはないようです。
残念ながら「沖縄画壇」では、日本画系の画家は余り輩出されませんでした。
代わりに「沖縄画壇」が東京画壇との繋がりを深めたのは、「西洋画」系でした。
明治末期に、東京美術学校1期生の西洋画科出身の「山本森之介」が美術教師として派遣され、
後進を育て上げたのが始まりです。
そのため、沖縄での戦後の美術界の主流は、
西洋画であり、その傾向は現在まで続いています。
しかしながら、
数百年間もの歴史のある「王朝絵画」の伝統を持った沖縄で、
同じ「南画」の流れを持つ「日本画」の画風が~
昭和初期までの「京都画壇」から熱烈に送られた「ラブコール」にも拘らず、
沖縄では根付くことなく、
細々とした「一画法」の存在にしかなれなかったのは…
その画風が沖縄の文化に沿わなかったからだとは考えていません(私見です)。
それは、
沖縄が戦争によって物理的にも文化的にも壊滅的な被害を被り、
四半世紀に及ぶ米軍政下に置かれ続け、
現在も米軍経済の影響を受けざるを得ない環境下にあって…
受け入れるべき「土壌」が無くなっていたからだと考えています(当然私見です)。
沖縄の人々が生きていくことに必死だった中で…
三線や泡盛や、紅型、琉球舞踊などの沖縄独特の文化が、
逸早く復活し、人々の心の飢えを癒していったのとは裏腹に、
(米軍民政府がそれを奨励してもいたのですが)
戦前に日本政府が強制した「皇民化政策」の抑圧から一気に解放される「逆境」下では、
止むを得なかったのではないか…
その後、施政権が日本に復帰してから、
本土経済と文化が怒涛の如く流入して、沖縄の文化はまた変遷するのですが、
そうした「日本」との「同化」と「異化」の間で揺れ動き続けたのが沖縄の文化の特徴であり、
それが、私を含めた本土の人間達にとって、
魅了される要素にもなっているのだと考えています(やっぱり私見です)。
これで、「京都画壇と沖縄」の話は終わりですが、
外伝として、
森井龍仙と菊野おばあちゃん(私の祖母です)との逸話を断片的なものですが紹介していきたいと思います。
では、この続きは次回と云うことで…