【京都画壇と沖縄】
大正後期~昭和初期(1920年代~30年代)になると、
本土の日本画壇を含めた芸術家達と沖縄の知識人達との交流が盛んになりました。
本土~沖縄間のアクセスは、
明治17年(1884)の鹿児島と大阪航路の開設から始まります。
大正後期までには那覇港が二度に渡りに整備され海上交通手段が近代化したことから、
その交流頻度は飛躍的に高まりました。
菊池契月は昭和3年(1928)の初夏に訪沖して、
その年の秋には「南波照間」の大作を完成させます。
同じ「京都画壇」の日本画家では、
冨田渓仙(1879~1936)が「沖縄三題」などの関連作品を描いています。
この作品も大作で、高さ165cmの掛け軸もの四幅に3つのストーリーにして描いたものです。
「新南画」家とも評されている四条円山派の画家で、
南画と水墨画の描法を融合させたような筆遣いの実に暖かい画風の作品です(私見です)。

当時沖縄を訪れた芸術家達は、「古来日本の本当の姿がここにある」とまで評し、
沖縄文化の特殊性とある意味での同質性を賞賛しています。
しかしながら、「京都画壇」サイドとしての「交流」は…
一方通行の表層的なもので終わってしまったようです。
残念ながら、沖縄での京都画壇系の画家は余り活躍してはおりません。
さてそれでは、昭和初期に活躍した、
沖縄の美術界を代表するとも言える大画伯「山田真山」についてお話したいと思いますが、
この続きはまた次回に、と云う事で…