昭和初期の「京都画壇」と沖縄⑨ | 「沖縄病」の楽しみ方…?

「沖縄病」の楽しみ方…?

空港に降り立った途端に味わうまったりとした空気感が好き…
「また来たよ…」とついニヤリとしてしまう…
先日戻ったばかりなのにもう次の訪沖のことを考えている…
そんなあなたの症状を改善? 助長? いたしましょうかね~

花粉症の症状が出始めました。
先日から鼻は水道管の蛇口と化しています。
そのうち偏頭痛を伴うようになり、不眠の原因にもなります。
目は今のところショボショボとはしていますが、あのどうしようもないような痒みにはまだ襲われていません。
いつも、風邪と間違えるような症状で始まり、
やがて目の痒さで本格的な「シーズン」に突入します。
あぁ~、杉花粉のない沖縄で暮らしたい…
 
 
さて、森井龍泉と菊野おばあちゃんの話の最終章後半です。
 
【森井龍泉と菊野おばあちゃん(その2)】
 
森井龍泉の公式な記録によれば、
京都を離れて各地を転々とした後、呼松へ帰郷した頃(大正初期)から雅号を「巽仙」(そんせん)に改めています。
昭和9年には、「ふさ」と56歳(!)で再婚します。
生活は、玉島~児島辺りを支援者を求めて転居を繰り返していたようですが、
翌10年には、長女が誕生します。
昭和16年から終戦直前までの4年間を大阪で暮らしますが、
昭和20年に再び呼松に戻り、29年に77歳で死去するまでの9年間を過ごします。
 
当時の「文化人」の精力旺盛さには改めて驚かされますが、
「ふさ」と新婚生活を送っていた頃に、祖母との「交際」が重なっているのです。
そして、戦時中に大阪から帰郷してから、再び「交際」が始まっています。
祖母が40歳代後半の時分の事です。
更に「巽仙」が77歳で死去した折、
彼の墓碑の建立資金を提供したのも祖母だったそうです。
その墓所は、今も我が一族の墓所の所在と同じ呼松山の中腹に静かに佇んでいます。
 
こんな話は、公式記録のどこにも掲載されていませんが、
具体性のある生々しい話ですから、祖母や母の作り話とは考えられませんし、
それが「人違い」ではない事の証拠として、
実家には、「巽仙」直筆のものと思われる「遺作」が何点も保存されており、
昭和53年には、呼松の篤志家により「巽仙」の遺作展が開催された際に、
「展示したい」との要請を受け、貸し出しした事もあります。
また、それらの作品には、推薦人の連署が添えられており…
昭和初期の岡山出身の大物政治家である、
「小谷節夫」「星島二郎」「横山泰造」の三氏が登場しているのには驚きです。
どの人物も中央政治の表舞台で「善しにつけ悪しにつけ」活躍した「名士」ですから、昭和の「人物名鑑」を紐解けば必ず登場している筈です。
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(我が家に残っている作品です。「墨義」と書かれているのでしょうか?)
 
「巽仙」は、地元支援者達に求められ、よく自分の作品を提供していた…
との記録も残されています。
その当時の人々の価値観は、「芸術」や「文化」などへ如何に関与することが出来たかが一つのステータスになっていたように思えます。
人々の興味の対象は、
「個性」よりも「権威」、「団子よりも花」…
すなわち、実益よりも「華」が優先される時代だったと考えられます。
現代の私達が考えている以上に、昔の人々は「芸術」等への拘りが強かったのでしょう。
 
 
森井龍泉と菊野おばあちゃんのお話はこれでお終いです。
これまで、
無理矢理「京都画壇」を媒体にして「沖縄」に絡めて一貫性の乏しい物語展開を進めてきましたが、
自分は祖母のことを殆ど知らなかったな…
と尽く尽く思い知る機会となりました。
(生まれの事も、育ちの事も、仕事の事も、恋愛のことも)
だからこそ、我が家の「昭和家族史」を、時の流れの中で埋没させる訳にはいかないと気付きました。
他者にとってはどうでもよい事ではありますが、
少なくとも、自分の子孫へは、
その一部でも記録として(非常に心許無い文章ですが)残してやりたい…
と改めて決意しています。
今夏、お盆の帰省の折には、
母と一緒に、件の「位牌」や「墓所」について、もう一度じっくりと調べ直してみたいと考えています。