昭和初期の「京都画壇」と沖縄③ | 「沖縄病」の楽しみ方…?

「沖縄病」の楽しみ方…?

空港に降り立った途端に味わうまったりとした空気感が好き…
「また来たよ…」とついニヤリとしてしまう…
先日戻ったばかりなのにもう次の訪沖のことを考えている…
そんなあなたの症状を改善? 助長? いたしましょうかね~

【幸野楳嶺と鈴木松年】
 
京都府画学校創立(1880=明治13年)の中心人物であったキーマンⅠの「幸野楳嶺」(1844~1895)は、
当時、京都画壇と言うよりは日本画壇の重鎮として、
帝室技芸員(皇室のお抱え絵師みたいなものです)も拝命しており、
その門下には竹内栖鳳、菊池芳文などのように、
既に大家として活躍している者も大勢いました。
 
上村松園の回顧録には、こう記されています。
「楳嶺先生は門下の人達に対しては実に厳格であった。
 姿勢ひとつ崩すことも許されなかった。
  「正姿のない処に正しい絵は生まれぬ」
 これが先生の金言だった。」
 
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美術人名辞典では、
「艶麗で華々しい花鳥画を得意とした。
 後進の指導にも優れ、後の錚々たる諸大家を育て、近代京都画壇の基礎を築いた。」
と評しています。
 
 
一方のキーマンⅡの「鈴木松年」(1848~1918)は、
明治初期の京都画壇で最大勢力を誇った鈴木流(鈴木派)の祖であった鈴木百年を父に持つ人物で、
早くから画壇での地位を確立しておりました。
謹厳な幸野楳嶺に対して、
激しく豪放磊落な気性で知られ、画学校時代は他の教師達との諍いが度々繰り返されていたそうです。
 
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同じく、上村松園の回顧録では、
「先生は決して刷毛を使われなかった。
 刷毛のような細工物は芸術家の使うものではない、画家は須らく筆だけによるべきである……
 と言われて、普通刷毛を必要とするところは筆を三本も四本も並べて握りそれで刷毛の用をなされたのである。
 雄渾な筆致で … こちらの手先にまで力が入るくらいに荒いお仕事振りであった。
 筆に力が入り過ぎて途中で紙が破れたことなども時々あった。」
「刷毛を厭われたと同様に、器物を使ってものの形を取ることも極度に嫌がられた。
 例えば、月を描く場合でも … 筆を束ねて一種の腕力を以って一気にさっと描かれたものである。
 当時京都画壇には … などの方々が夫々一家を成していられたが、
 … 月を描かれる時には丸い円蓋とか丸い盆、皿などを用いられていたが、
 松年先生は決してそのような器具は使われなかった。」
「そう云う気持ちの先生であるから物事には拘らないすこぶる豪快なところがあった。」
と、観察眼を鋭くして述べています。
 
そのような対照的な気性の両者でしたから、
同門の円山・四条派でありながら、
お互いの存在・才能を認めながらも相容れない部分を抱えつつ、
やがて鈴木松年の方は、画学校の教育方針に反発して教職を放擲してしまいます。
当時の「日本画」の領域には、
京都府画学校の専攻が四宗に区分されていたように、日本古来の日本画(大和絵)の他に、
南画、文人画と云うジャンルが幅を利かせていました。
中国の「南宗画」の影響を受けた作風で、
鈴木流などはその流儀を墨守するのですが、
明治中期に入り、学校制度や展覧会組織が整備され美術の近代化が推し進められていく中で、
南画は時代遅れの作風として、画壇から冷遇されるようになるのです。
 
やがて大正期に至り、
前回の記事にて触れたように、日本画壇の近代化は、
「西の栖鳳、東の大観」と言われたように、
横山大観ら「日本美術院」の画家達と、
京都画壇の幸野楳嶺の弟子・竹内栖鳳を中心とした画家達とを両輪にして推し進められていったのです。
 
 
以上ダラダラと引用文を繰り返しながら、話も単純化かつ短絡化しておりますが(恐縮です)…
好対照の両人に夫々師事した弟子達の中に…
「菊池契月」や「森井龍泉」もいた訳です。
 
では、この話の続きは次回と云うことで…