昭和初期の「京都画壇」と沖縄④ | 「沖縄病」の楽しみ方…?

「沖縄病」の楽しみ方…?

空港に降り立った途端に味わうまったりとした空気感が好き…
「また来たよ…」とついニヤリとしてしまう…
先日戻ったばかりなのにもう次の訪沖のことを考えている…
そんなあなたの症状を改善? 助長? いたしましょうかね~

【菊池契月と沖縄】
そして、菊池契月は、「幸野楳嶺門下の四天王」の一人・菊池芳文の娘婿に当たります。
芳文とは17歳年下でしたが、早くから後継者として名を馳せ、
創設されたばかりの文展(文部省美術展覧会)では連年の入賞、
32歳の時には、イタリア万国博覧会にも出品を許されるまでになっていました。
また、この年には、京都市立絵画専門学校の助教授にも就任しています。
そして39歳の時に、逝去した芳文を継ぎ「菊池塾」を主宰することになりました。
 
楳嶺流は、京都画壇正統の「四条派」の中でも柔らかい筆遣いが特徴的ですが、
契月は古典的な歴史画や人物画を得意としていました。
それが、菊池流を主宰するようになった大正期になると、
四条派の技法を踏まえながらも新しい画風を取り入れるようになり、
それ以前の作品にはなかった
「鮮烈な色彩、不気味なまでに生々しい写実的表現」
が見られるようになったと言われています。
 
更に大正末期になって、京都画壇は美学者や画家を積極的にヨーロッパ派遣させます。
契月も43歳の時に、仏・伊を中心とするヨーロッパ各地に1年間滞在し、
ルネッサンス期のフレスコ画等の「明朗・晴朗な色調」の技法を習得していきます。
そして昭和3年の49歳の時に、初夏の沖縄を訪問したのを契機に、
高さ2mにも及ぶ大作「南波照間」をその秋の内に一気に描き上げるのです。
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ヨーロッパ遠征によって、返って大和絵や仏教美術などの懐古的な画風を再認識していたと言われており、
当時の美術専門誌に寄稿した記事には、
沖縄の女性の、紅型や絣、カミアチネー姿など、様々な風俗に対する感想を詳細に述べていますが~
「日本原初の純粋さ」を沖縄に感じ、
「ゴーギャンの影響が見られる」とも言われるような、正に「明朗・晴朗な色調」と、
大和絵の技法を基にしながら、「静謐な中に浪漫的な情趣を漂わせる」契月独特の作風で、
「契月の作風は最高点に到達した」とも評価される代表作となりました。
 
 
さて、それでは、もう一方の人物「森井龍泉」についてお話したいと思いますが、
この続きは、また次回と云うことで…