昭和初期の「京都画壇」と沖縄② | 「沖縄病」の楽しみ方…?

「沖縄病」の楽しみ方…?

空港に降り立った途端に味わうまったりとした空気感が好き…
「また来たよ…」とついニヤリとしてしまう…
先日戻ったばかりなのにもう次の訪沖のことを考えている…
そんなあなたの症状を改善? 助長? いたしましょうかね~

【京都画壇の形成】
 
この「京都画壇」とは、東京の流派との対極にある流派として説明されているようです。
「日本画」の歴史を遡りますと、
徳川家が江戸幕府の開府に当たり、
当時、大和朝廷の権力下にあった有力絵師一派をごっそりと「引き抜いて」江戸へ連れ出したことが東西対極化の契機となったものです。
江戸幕府がスカウトしたのが「狩野派」ですね。
 
これに対して京都では、
円山応挙に始まる「円山派」が強い影響力を持ち、「京都画壇」を形成していく訳です。
昭和初期の「京都画壇」は、その後、松村呉春から分派した「四条派」で修行した画家達(竹内栖鳳、川合玉堂、上村松園、菊池芳文~娘婿:菊池契月 etc.)が背負う事になりますが、
それまでの明治~大正時代の「京都画壇」は、「円山派」が諸家に枝分かれする中で、「四大勢力」に集約されていきます。
 
近代の京都画壇は、明治13年に創立された「京都府画学校」(現在の京都市立芸術大学)を中心に発展していくのですが、
開校当初は「東西南北四宗」と云う4つの専攻に分かれており、正に上述の「四大勢力」の縮図でした。
それぞれ、
①東宗(「柔らかい四条派で、主任の先生は望月玉泉さん。」~この中に、望月玉泉と共に学校創立に尽力した「幸野楳嶺」がいますが、この人物がキーマンⅠです!
②西宗(「新しく勃興した西洋画つまり油絵で、主任が田村宗立先生。」)
③南宗(「文人画で主任が巨勢小石先生。」)
④北宗(「力のある四条派で、主任が鈴木松年という一流の大家ばかりでした。」~さあ、この人物がキーマンⅡです!!
(※参考:(「 」)内の文言は、上述の「鈴木松年」と「幸野楳嶺」の双方に師事した「上村松園」(上述)の回顧録から引用しています。下の画像が上村松園の大作「舞支度」。)
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そして、この四大勢力図は大正末期頃から、
「西の楳嶺(上述の幸野楳嶺)、東の大観(横山大観)」
と東西の画壇が並び称され二極化が顕著になるに伴い、
「南画」系であった、南宗と北宗の専攻は次第に冷遇されるようになりました。
 
この頃の京都画壇で激しく競合し、強い確執が生じたと言われているのが、
先のキーマンⅠとⅡの「幸野楳嶺」と「鈴木松年」でした。
そして、前回お話した菊池契月は、幸野楳嶺門下生であり、
「我が家の縁者」の森井龍泉が鈴木松年の門下生だったのです(少々有名度に格差がありますけど)。
 
 
それでは次回は、大正期の「京都画壇」が二人のキーマンの確執の下で、どのように変遷していったかについてお話していきたいと思います。