合唱団の皆さんが「モツレク」と呼んでいる曲がある。モーツァルトが作曲した「レクイエム」だ。「僕は第8曲で泣いてしまうねん」という同級生もいるので、一度は聴いてみたいと思っているところにチャンスが来た。東京ユニバーサル・フィルハーモニー管弦楽団が定期演奏会でモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」と「レクイエム」を演奏されるという。

 

 
このご案内を「レクイエム」に出演される成城合唱団の常任指揮者、高嶋先生から頂いた。成城合唱団は成城学園で学んでいた生徒が中心となり、そこに卒業生が加わって1936年に活動を始められた歴史ある合唱団で、演奏回数は130回を超えるという紹介があった。80才を超えるご長老から大学を卒業したばかりの若手まで幅広い年齢層から集い、中にはご夫婦や親子もおられるらしい。これは何としても100周年を目指して欲しいものだ。
 
「レクイエム」(死者のためのミサ曲)はモーツァルト最後の作品で、モーツァルトの死で未完のまま残されたものを弟子のジュースマイヤーが補筆して完成させたとのこと。モーツァルトは1791年に亡くなっているが、当時はウィーンの聴衆の人気を失い、苦しい生活を送っていたらしい。そんな中、見知らぬ男性が彼を訪ね、レクイエムの作曲を依頼し、高額な報酬の一部を前払いして帰っていったとのこと。結局、モーツァルトは曲の完成を果たせぬまま亡くなるが、彼の死後、「モーツァルトは死の世界からの使者の依頼で自らのためにレクイエムを作曲していたのだ」という伝説が流布したそうだ。
 
さて、初めて聴いた「レクイエム」だが、死と向き合ったときの恐怖や悲しみ、それを乗り越えようとする決意や勇気、やがて運命を受け容れようという安らかな気持ちが伝わってくる曲だったと思う。東京ユニバーサル・フィルハーモニー管弦楽団は見事に息の合った素晴らしい演奏をされていたが、4人の歌手と合唱団の歌声から、不遇な環境にあって死と向き合い、苦しみながらも平安を願っていたに違いないモーツァルトの気持ちがひしひしと伝わってきたように思う。素敵な夜になった。感謝。
高校時代の恩師、饗庭先生が「船長の銀のスプーン」と題する絵を描いておられる。なんでわざわざスプーンなのかと思い、その由来を聞いた。


同志社の創立者、新島襄先生は1864年、函館から密出国してアメリカへと渡られるが、先生をボストンまで運んだワイルド・ローヴァー号には上海で乗船されている。その上海まで先生を送り届けたのがベルリン号という船で、セイボリーという方が船長を務めておられたらしい。国禁を破った先生は見付かれば死罪だし、それを助けた者も罰せられるという時代だったから、セイボリー船長は自らのリスクを承知の上で先生を助けてくださったことになる。

(函館沖に停泊中のベルリン号に向かう新島先生の和船。これも饗庭先生の作品)

さて、新島先生は上海までの航海中、給仕を務めておられたが、セイボリー船長の銀のスプーンをうっかり洗い桶の水とともに海中に捨ててしまう。先生はそれを身振り手振りで船長に伝え、スプーンの代わりに所持していたお金を渡そうとされるが、船長は怒るどころか先生の話を微笑みながら聞き、お金を受け取ろうとはされなかったらしい。先生の誠実なお人柄が伝わったのだろうが、何とも素晴らしい光景ではないか。

セイボリー船長は、その後、先生を助けたことが発覚してしまったことから、それを理由に職を失ってしまう。にもかかわらず、ボストンに新島先生を訪ねたセイボリー船長はそれに関しては何もおっしゃらず、ただただ再会を喜び、先生を励まして帰って行かれたらしい。こういう頼もしい大人との出会いが新島先生を助け、同志社創立を現実のものにしたのだろう。私もそういう大人にならねばと思う。

毎日新聞や朝日新聞で紹介されていた「まるでモンサンミッシェル」という写真。琵琶湖の水位が下がり、長浜市沖の小島、「奥の洲」と陸続きになったらしい。



少雨の影響で12月6日午前6時の平均水位はマイナス70センチで、渇水対策本部を設置する基準まであと5センチとのことだ。「奥の洲」は鳥の生息地で、湖岸の湿地帯にあるヨシ群落は保護の対象とのこと。あまり多くの人が物見遊山で訪れると鳥やヨシはびっくりしそうだ。

私の本籍は滋賀県で、子供の頃は夏休みのほとんどを琵琶湖畔で過ごした。今はどうか分からないが、早朝、浜辺に出て浅瀬にタオルをいれると「ゴリ」という小魚をすくい上げることができた。これを甘辛く煮たものが食卓に出て、炊きたてのご飯に良く合った。あぁ、懐かしい。あれから半世紀どころか60年も経ったのかと思うと溜め息が出る。もう少し成長します!