大きな年輪を見つけた。


ボルネオ7番のブログ-年輪


私と同い年くらいだろうか。そうだとすれば、東京オリンピックに湧いた東京やその後の高度経済成長、稼いだお金が土地や株に向かって始まった資産バブルとその崩壊、そして迎えたデフレの時代、と大きな時代の流れを見てきたことになる。


そんなことを思いながら写真を撮り、しばらく年輪を眺めていたのだが、ふと、この幹が私と同い年なら私は今どこにいるのだろうと考えた。年輪の一番内側なのか、それとも一番外側なのか。


多分、外側ほど古い過去で、内側ほど新しい過去だから、年輪の中心が現在なのだろう。ならば、年輪の幅は小さくなろうとも成長し続けなければならないと思うし、外側の記憶や経験や自信はどんどん捨て去って良いのかなと思う。


散歩しながら頭も使い、自宅に戻るとお腹がぐ~っと鳴った。

今日はねんりん家のバウムクーヘンでも買いに行くか(^O^)/

自民党、石破幹事長の言葉。


「尖閣諸島に仮に武力攻撃があったときに、いきなり米国が出てくることはないだろう。まず一義的に日本が対処するのは当たり前」


そういう事態を迎えたくはないが、仮にそうなった場合には、石破幹事長の発言が現実的なんだと思う。ただ、ここでいう「日本が対処する」が自衛隊による応戦を意味するなら、要は「戦闘が始まる」ということだ。それが任務とはいえ、自衛隊員にもお子さんや配偶者や親御さんがいるのだから、やはり何としても開戦だけは回避せねばならないと思う。


そういう生々しい発言と並行して、憲法改正に意欲を見せる安部総理の動向がひんぱんに報じられている。その中に、自衛隊を「国防軍」と改称したいという考えが紹介されていた。これについては最近まで賛成だったのだが、尖閣諸島や竹島を巡る中国、韓国との争いがエスカレートし、更には北朝鮮が核実験を強行したことを知り、逆にここは「国防軍」にしない方が良いのでは、と思うようになった。


理由は「国防軍」という言葉の重みだろうか。

国語辞典によれば、「自衛」とは自分の力で自分を守ること、一方、「国防」とは外敵の侵略に対する国家の軍事力による防衛、とある。似ているといえば似ているが、国防軍になったとたんに背負うものも活動範囲も権限も一気に大きくなるような気がするのだ。


例えば、スポーツには「攻撃は最大の防御」という言葉がある。自衛隊にこの言葉はしっくり来ないが、国防軍にはこの言葉がしっくり来るように感じるのは私だけか。名は体を表すというから、改称にも慎重になるべきかと思う。


ケーブルテレビで放映されているのを観た。


ボルネオ7番のブログ-リアルスティール


泣くことはないだろうと思っていたが、予想以上に感動的で、危うく涙を流すところだった。子供が生まれたとき、親父から「あのな、子供は親の背中を見て育つというやろ?その通りや。お前もそうやったやろ。せやからな、ちゃんと生きなアカンで」と言われた。


この映画を観てその言葉を思い出した。ヒュー・ジャックマンはダメ親父だったが、旧式ロボットのアトムが自分を見て強く逞しいボクサーに育っていく内に父性を取り戻したのだろう。その頼りになる父にやがて息子も心を開く。


アナログがデジタルに勝つという、私のようなアナログ人間が溜飲を下げることのできる場面も出てくるが、考えてみれば愛情や信頼はそもそもアナログだ。そういう意味ではデジタル世代への警鐘でもあるのかなと思う。