これまで「ジャズ」には全く興味がなく、もちろん、生の演奏など聴いたこともないし、聴こうと思ったこともなかった。それ位、ジャズには無縁の人生だったが、日曜礼拝でお邪魔している教会の集会室でジャズ・コンサートが催されると聞き興味が湧いた。しかも入場無料とのことで敷居が低くなり、躊躇する理由がなくなった(笑)

演奏されたのは「高田光比古クインテット」、リーダーの高田さんはドラム、これにベース、ギター又は尺八、ピアノ、テナーサックスの4人が加わり、5人組のクインテットとなるが、何しろ会場は小さな集会室だから奏者の表情や動き、指使いがハッキリ見える。又、マイクを使わない、文字通りの生演奏だから、聴こえてくる音に嘘偽りがない。これは大変新鮮で、臨場感があるというより一体感を感じてしまった。

さて、初めて聴くジャズだったが、予想に反し、大変リズミカルで前に進む勢いがあり、豊かな感情が込められているのを感じた。知らず知らずの内に身体でリズムを取っていたし、周りには信者さんやご家族、ご友人、ファンの皆さんなど約80名の方が居られたが、皆さんがそれぞれ、自分の好きな形で流れてくる音楽に乗っておられたように思う。肝心の曲目を全く覚えていなくて恐縮だが、中にはバラード調の曲があったり、2人又は3人だけで演奏される曲があったりで、私にとっては何もかもが新鮮で、あっという間の2時間だった。

ジャズ

左端がリーダーであり、ドラム担当の高田光比古さん。迫力のあるドラムで、私には他のメンバーを容赦なく追い立てるリズムメーカーのように見えた。厳しいリーダーなんやろなぁと思っていたのだが、最後の曲では数分間の独奏をされ、そのときは自らも追い立て、こちらがハラハラドキドキするような緊張感があったから、自分にも厳しい方なのだろう。ちなみに、右端で演奏を見守っておられるのが会場となった教会の高田牧師先生で、実は、お二人は仲の良いご兄弟とのこと。

素敵な時間をありがとうございました!
外務省、それはないやろう、と思うが、上意下達を旨とする役人社会にあって杉原は「異分子」だったのだろう。杉原は妻と三人の子を抱え、職探しに奔走するが、彼の卓越した語学力が窮状を救う。進駐軍向けの商業施設、東京PXの総支配人を皮切りに貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務、60才で川上貿易のモスクワ事務所長になると再びソ連の地を踏む。5年後には国際交易のモスクワ支店代表となり、忙しくも平穏な日々を送ることになった。こうして「命のビザ」も歴史の中に埋もれて行く筈であったのだが、68才のとき、杉原は一本の電話を受ける。

電話をしてきたのは、イスラエル大使館に勤務する二シュリ参事官で、その後、杉原に面会した同参事官はボロボロになった「杉原ビザ」を取り出すと、「あなたは私のことを忘れたでしょうが、私たちは片時もあなたのことを忘れたことはありません。あなたに感謝の気持ちを伝えたくて、この28年間ずっとあなたのことを探し続けていました」と溢れる涙を拭おうともせずに伝える。あぁ、何という感動的な話だろう。

翌年、杉原はイスラエルに招待され、バルハフティック宗教大臣から丁重な歓迎を受ける。同大臣はかつてリトアニアの領事館で難民側の代表を務めていた人物で、あのときのビザ発給が杉原による独断であったことを初めて知り、しかもそれが原因で外務省を退官させられたことを聞き、大いに驚き、又、同情したという。85才のとき、杉原は「正義の人」として「ヤド・バシェム賞」をイスラエル政府から贈られているが、日本国内では、2000年に当時の河野洋平外務大臣が「外務省として杉原氏に色々とご無礼があったことをお詫びしたい」と触れただけに留まる。それを知ると、少し残念な思いがする。
学業が優秀であったことから、父は医者になることを期待したが、杉原はそれが嫌で、入学試験の当日、母が作った弁当だけを食べ、受験はせずに帰宅する。それを知った父から勘当されるが、子供の頃から自分の意志を押し通す強さがあったようだ。

その後、英語の教師を目指した杉原は早稲田大学に進学するが、外務省が官費留学生を募集していることを知り、海外で語学力を身に付け、外交官になれるチャンスもあることに魅力を感じた杉原はその試験を受け、見事パスする。19才でロシア語留学生としてハルビンに渡り、24才で外務省に奉職。満州とフィンランドで勤務した後、リトアニア日本領事館領事代理に任命され赴任する。39才のときだ。

翌年の1940年7月27日の早朝、リトアニアの首都カウナスにある日本領事館はナチス・ドイツによってポーランドを追われてきた大勢のユダヤ系難民に取り囲まれる。彼らはシベリアを通り、日本経由で米国に渡ることを望んでいたのだ。杉原は直ぐに日本の外務省に大量ビザ発給を認めるよう打電するが、外務省は日独伊三国同盟を盾にこれを拒絶する。杉原は一晩悩むが、訓令違反のビザ発給を決意する。 後に杉原はそのときの心境を聞かれ、「目に涙をためて懇願する彼らに同情せずにはいられなかった。この人々をどうして見捨てることができようか。見捨てれば私は神に背く」と答えている。

領事館の門が開いた瞬間、建物を取り囲む群衆は狂喜し、大歓声を上げたという。それから領事館が閉鎖されるまでの1ヶ月間、杉原は難民たちに「命のビザ」を書き続ける。用紙がなくなるとあり合わせの紙を利用し、約6000人の難民にビザを発給した。その後、杉原はドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニアの日本領事館に勤務し、終戦を迎えるとルーマニアで抑留生活を送り、1947年4月、ようやく帰国する。しかし、復職した外務省から独断によるビザ発給の責任を問われ、杉原は解雇通告を受けてしまう。

chiune

(続く)