外務省、それはないやろう、と思うが、上意下達を旨とする役人社会にあって杉原は「異分子」だったのだろう。杉原は妻と三人の子を抱え、職探しに奔走するが、彼の卓越した語学力が窮状を救う。進駐軍向けの商業施設、東京PXの総支配人を皮切りに貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務、60才で川上貿易のモスクワ事務所長になると再びソ連の地を踏む。5年後には国際交易のモスクワ支店代表となり、忙しくも平穏な日々を送ることになった。こうして「命のビザ」も歴史の中に埋もれて行く筈であったのだが、68才のとき、杉原は一本の電話を受ける。
電話をしてきたのは、イスラエル大使館に勤務する二シュリ参事官で、その後、杉原に面会した同参事官はボロボロになった「杉原ビザ」を取り出すと、「あなたは私のことを忘れたでしょうが、私たちは片時もあなたのことを忘れたことはありません。あなたに感謝の気持ちを伝えたくて、この28年間ずっとあなたのことを探し続けていました」と溢れる涙を拭おうともせずに伝える。あぁ、何という感動的な話だろう。
翌年、杉原はイスラエルに招待され、バルハフティック宗教大臣から丁重な歓迎を受ける。同大臣はかつてリトアニアの領事館で難民側の代表を務めていた人物で、あのときのビザ発給が杉原による独断であったことを初めて知り、しかもそれが原因で外務省を退官させられたことを聞き、大いに驚き、又、同情したという。85才のとき、杉原は「正義の人」として「ヤド・バシェム賞」をイスラエル政府から贈られているが、日本国内では、2000年に当時の河野洋平外務大臣が「外務省として杉原氏に色々とご無礼があったことをお詫びしたい」と触れただけに留まる。それを知ると、少し残念な思いがする。
電話をしてきたのは、イスラエル大使館に勤務する二シュリ参事官で、その後、杉原に面会した同参事官はボロボロになった「杉原ビザ」を取り出すと、「あなたは私のことを忘れたでしょうが、私たちは片時もあなたのことを忘れたことはありません。あなたに感謝の気持ちを伝えたくて、この28年間ずっとあなたのことを探し続けていました」と溢れる涙を拭おうともせずに伝える。あぁ、何という感動的な話だろう。
翌年、杉原はイスラエルに招待され、バルハフティック宗教大臣から丁重な歓迎を受ける。同大臣はかつてリトアニアの領事館で難民側の代表を務めていた人物で、あのときのビザ発給が杉原による独断であったことを初めて知り、しかもそれが原因で外務省を退官させられたことを聞き、大いに驚き、又、同情したという。85才のとき、杉原は「正義の人」として「ヤド・バシェム賞」をイスラエル政府から贈られているが、日本国内では、2000年に当時の河野洋平外務大臣が「外務省として杉原氏に色々とご無礼があったことをお詫びしたい」と触れただけに留まる。それを知ると、少し残念な思いがする。