学業が優秀であったことから、父は医者になることを期待したが、杉原はそれが嫌で、入学試験の当日、母が作った弁当だけを食べ、受験はせずに帰宅する。それを知った父から勘当されるが、子供の頃から自分の意志を押し通す強さがあったようだ。
その後、英語の教師を目指した杉原は早稲田大学に進学するが、外務省が官費留学生を募集していることを知り、海外で語学力を身に付け、外交官になれるチャンスもあることに魅力を感じた杉原はその試験を受け、見事パスする。19才でロシア語留学生としてハルビンに渡り、24才で外務省に奉職。満州とフィンランドで勤務した後、リトアニア日本領事館領事代理に任命され赴任する。39才のときだ。
翌年の1940年7月27日の早朝、リトアニアの首都カウナスにある日本領事館はナチス・ドイツによってポーランドを追われてきた大勢のユダヤ系難民に取り囲まれる。彼らはシベリアを通り、日本経由で米国に渡ることを望んでいたのだ。杉原は直ぐに日本の外務省に大量ビザ発給を認めるよう打電するが、外務省は日独伊三国同盟を盾にこれを拒絶する。杉原は一晩悩むが、訓令違反のビザ発給を決意する。 後に杉原はそのときの心境を聞かれ、「目に涙をためて懇願する彼らに同情せずにはいられなかった。この人々をどうして見捨てることができようか。見捨てれば私は神に背く」と答えている。
領事館の門が開いた瞬間、建物を取り囲む群衆は狂喜し、大歓声を上げたという。それから領事館が閉鎖されるまでの1ヶ月間、杉原は難民たちに「命のビザ」を書き続ける。用紙がなくなるとあり合わせの紙を利用し、約6000人の難民にビザを発給した。その後、杉原はドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニアの日本領事館に勤務し、終戦を迎えるとルーマニアで抑留生活を送り、1947年4月、ようやく帰国する。しかし、復職した外務省から独断によるビザ発給の責任を問われ、杉原は解雇通告を受けてしまう。

(続く)
その後、英語の教師を目指した杉原は早稲田大学に進学するが、外務省が官費留学生を募集していることを知り、海外で語学力を身に付け、外交官になれるチャンスもあることに魅力を感じた杉原はその試験を受け、見事パスする。19才でロシア語留学生としてハルビンに渡り、24才で外務省に奉職。満州とフィンランドで勤務した後、リトアニア日本領事館領事代理に任命され赴任する。39才のときだ。
翌年の1940年7月27日の早朝、リトアニアの首都カウナスにある日本領事館はナチス・ドイツによってポーランドを追われてきた大勢のユダヤ系難民に取り囲まれる。彼らはシベリアを通り、日本経由で米国に渡ることを望んでいたのだ。杉原は直ぐに日本の外務省に大量ビザ発給を認めるよう打電するが、外務省は日独伊三国同盟を盾にこれを拒絶する。杉原は一晩悩むが、訓令違反のビザ発給を決意する。 後に杉原はそのときの心境を聞かれ、「目に涙をためて懇願する彼らに同情せずにはいられなかった。この人々をどうして見捨てることができようか。見捨てれば私は神に背く」と答えている。
領事館の門が開いた瞬間、建物を取り囲む群衆は狂喜し、大歓声を上げたという。それから領事館が閉鎖されるまでの1ヶ月間、杉原は難民たちに「命のビザ」を書き続ける。用紙がなくなるとあり合わせの紙を利用し、約6000人の難民にビザを発給した。その後、杉原はドイツ、チェコ、東プロセイン、ルーマニアの日本領事館に勤務し、終戦を迎えるとルーマニアで抑留生活を送り、1947年4月、ようやく帰国する。しかし、復職した外務省から独断によるビザ発給の責任を問われ、杉原は解雇通告を受けてしまう。

(続く)