新年早々、予期せぬ事件や出来事が相次ぎ、2020年は騒がしい幕開けとなった。最も驚いたのは米軍によるイラン革命防衛隊ソレイマニ司令官の殺害と、不幸にもその後に起こってしまったウクライナ機の撃墜事件だ。映画や小説ではなく現実の世界に起こったことで、多くの生命が奪われてしまったのだから、何を言っても言葉が軽く感じられてしまう。

そのイランだが、経済制裁を受けて原油輸出が滞り、国民生活が相当苦しくなっているのだとか。ソレイマニ司令官の葬儀に多くの人が詰め掛ける映像がニュースで流れたが、生活悪化を訴える反政府デモにも多くの人が参加しているというから、こちらも平和な東京からコメントするのは失礼だという気持ちになる。


ロンドン出張から帰国した同僚は、空港から市内に向かう電車の中でスリに遭ったのだとか。聞けば、扉近くに立っていたことろ二人連れのご婦人が乗って来られ、その後、もう一人のご婦人が乗りたそうだったので、その方のために三人でスペースを空けたのだとか。それに対してきちんとお礼も言われたし、警戒モードにはならなかったそうだが、気付いたら「前に抱えていたバックパック」のファスナーが開けられており、皮表紙の手帳が盗まれていたとのこと。今から思うと三人の女性はグルで、この三人に囲まれ、二人が同僚の気を反らし、一人がその隙に盗んだのだろうとのこと。

こういう話を聞いても、やはり日本は安全で、性善説で生きていける国なのかなと思う。それだから日本人は狙われるんだと言われそうだが、狙われるのは狙う側よりずっと幸せだからだろう。私も平和呆けでいきなり用心深くはなれないが、少なくとも今の境遇に感謝しようと思う。
「流石!」と感心させられたのは徳川家康だ。天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦では当初、西軍の方が地の利を得ていたらしい。又、西軍の主力部隊は大垣城に籠り、家康からすれば攻め落とすのに時間が掛かる厄介な状況だったとのこと。そこで家康は偽の情報を西軍に流し、大垣城の西軍主力部隊を互角に戦える関ヶ原に誘き出すことに成功する。

驚いたのは、この作戦の元になったのが三方ヶ原の合戦だったことだ。三方ヶ原の合戦では武田信玄の策略にまんまと引っ掛かった家康が浜松城から三方ヶ原に誘き出されて惨敗し、命からがら逃げ帰っている。その失敗を忘れないどころか、勝つためとあらば恥じることなく真似るという合理性が家康にはあったということだろう。

その家康は三方ヶ原での敗戦後、意気消沈した自分自身の姿を絵師に描かせている。「顰(しかみ)像」と呼ばれる絵だそうだが、今も名古屋の徳川美術館に残っているというから、家康の反省は徳川家の中で脈々と受け継がれて来たことになる。失敗を無駄にはしないという家康の哲学のようなものを感じさせる逸話だ。

家康は又、人一倍健康に留意し、自ら薬を研究し調合するなど長生きするための努力を惜しまなかったらしい。これも、幼い秀頼を残して亡くなった豊臣秀吉の失敗を見てのことではないか。だとすれば、他人の失敗からも貪欲に学ぶ姿勢を感じるし、徳川の世が300年続いたのは偶然ではなく、家康が可能な限り準備したからだろうと思えてくる。
雑誌に紹介されていた加来耕三さん著「歴史の失敗学」を購入した。源義経、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀、石田三成など日本の歴史に名を残した英雄25人の失敗を取り上げ、そこから教訓を導き出しておられる。


織田信長は義弟、浅井長政の離反に遭い、金ヶ崎で前後を阻まれる袋のネズミ状態に陥る。そうと知るや、信長は部下や友軍を置き去りにして戦線離脱して命からがら逃げるが、天下布武をほぼ成し遂げたという信長の慢心が失敗を招いたとおっしゃる。

確かにその通りだと思うが、それから僅か十年後に信長が本能寺で明智光秀に襲われ、命を落としていることを考えると、信長は失敗から学ぼうとせず、慢心すると油断してしまう自信過剰の人物だったという、つまらない信長像になってしまう。

信長は日本の未来に明確なビジョンを持っていたし、彼からすれば、明智光秀も豊臣秀吉もそのビジョンに共鳴している部下だと信じる一面があったのではないか。桶狭間の合戦を除くと、信長は用意周到に準備してから戦に臨んでいるし、決して注意力が散漫な人物とは思えない。ただ、一旦部下として信頼すると、以後その忠誠心を微塵も疑わない性格だったのではないか。それを惜しいようにも思うが、だからこそ優秀な人材が集まり、世の中を大きく変えることができたという見方もできるように思う。