佐々木智江
1 労働移民としての歴史
アメリカは、新大陸に夢を託してやってきた経済的に貧しい移民が築いた国である。
「人種のるつぼ」といわれるこの国では、その植民初期から、民族間・人種間で絶えることない反目、緊張状態が存在していた。その中でも中国に代表されるような東洋系の人々は、他の被差別民と違い、言葉・宗教・文化だけでなく、皮膚の色まで違う存在であり、差別する側の白人たちにとって、奇異と恐怖、迫害対象となった。いつまでもアメリカに同化しえない異邦人として、常に社会の最下層に虐げられてきたのである。
東洋人としての初めの移民は、中国人であった。彼らは、アメリカ・ゴールドラッシュ時代に、労働移民としてアメリカに移動してきた。この当初から、彼らを迫害するような雰囲気が存在していたらしい。実際に迫害が始まったのは、1880年代である。暴力的なものから、州に州民として認められず、保障を受けられないなどのものまで、さまざまあったようである。1882年には「中国人排斥法」が成立した。1943年に廃止されるまで、中国人の入国が制限・禁止されるものであった。
日本人のアメリカ移住は、この1880年代に始まる。中国人に代わるものとして、登場してきたのである。この頃の移民には移住の意志がなく、出稼ぎであり、その74%がカリフォルニア州に移住した。なぜなら、カリフォルニア州は、温暖な気候、広々とした土地があり、加えて太平洋に面していたからである。海の向こうに、祖国があるという安心感と、自分のいる大陸と祖国をつなぐ海から離れたくないという思いが、彼ら日本人を、海岸沿いから離さなかったようである。この頃の日本国内は、明治維新で大変混乱しており、経済的基盤を求めて、アメリカのみならず、各国に移住する人々が増えていった。日本人としての初めての移民は、1869年に、会津・戊辰戦争で負けた人々であり、再起を図るため、カリフォルニア州のある小高い丘に「ワカマツ・コロニー」の建設までした。
このように日本人労働者が勢力を伸ばしてきた理由の一つに、賃金の安さがあった。
「たとえば国人が週給5ドルなのに対して、日本人は日給35セントから40セントで働いたという・・・・・」
『カリフォルニア日系知識人の光と影』より、一部抜粋
これらの仕事は出来高払いであったが、彼らは大変よく働き、人夫請負業者に重用された。白人が一日平均3ドルしか稼げないのに対して、日本人は4ドル以上の収入を上げている。
1890年のアメリカ在住者は2039名、その後毎年1000、2000と増えていく。1900年には10年前の12倍である25000名近くの人々が移住している。
二十世紀にはいっても、移住する人々の数は増えつづけたが、次第にトラブルも増え始め、1908年に、日米紳士協定が結ばれた。(日本側が自発的に
アメリカ旅券交付の停止を行った)1924年、日本人を標的にした移住禁止の条項が、アメリカ連邦法(アメリカ国内における移住民に対する法律)に追加され、次第に反日感情があらわになってきた。当時は第二次KKK(クー・クラッスス・クラン)運動が盛んになっており、日本人を始めとする東洋人が、この運動により被害を受けたという報告はないが、多少なりともこの影響を受けたことは否めないであろう。ヨーロッパからくる新しい移民よりも、数が少
なく、太平洋岸という比較的限られた地域に住んでいた日本人は、特に差別を受けやすい環境にあったといえる。日本人に対するアメリカ側の対応により、日本人のアメリカへの渡航は完全に途絶え、南米ペルー・ブラジルなどに移民が流れていく結果となる。これ以降、この時からアメリカに移住した人々は「日系人」と呼ばれ、区別される。
2 アメリカ移住の経緯
1884年、日本政府は海外移住希望者に、契約移民として出国することを認めた。この背景には、武家制度が廃止されて、家制度の中で生きてきた、特に次男以下の男性が収入を得るために苦労するようになったことがあげられる。
また、徴兵制度が確立され、これから逃げるために海外移住を希望した男性も少なくない。北海道、台湾に渡ることも許されてはいたが、多くのものは先にあげた理由からアメリカに渡ることを選んだのである。
彼らの多くが、アメリカを希望の国と考えていた。アメリカは大きくて、とても豊かで、望みどおりのことができる国だと考えていたようである。多くの人々はアメリカについてたいした知識はもっていなかったが、成功した人の話、たまに手に入る写真から、夢を膨らませた。
そのため、初期のアメリカ移民の大部分は、日本の都市部よりも農村部の出であった。社会の底辺よりは上で、教育も一般の水準以上。エネルギッシュで高い志を持ったこのような人々の中には、成功を収める者も多くいた。
ほかの国からの移民と違って、日本人の男性は妻子を連れて行かず、一人でアメリカに移住するケースが多かった。一人で暮らし、家族に送金を続け、独身者は年をとってから結婚した。一方、女性は、男性よりも若干豊かな階層の出身で、年齢も男性より10歳から15歳下のことが多く、教養が高かった。
これには、「写真花嫁」という背景がある。女性側にアメリカから送られてきた写真、男性に向けて日本から送った写真だけで、結婚を決めてしまうというものであった。実際、自分がアメリカに行くまで相手の顔を直接見ることができないというこの結婚は、日本から夫と暮らすために渡米した女性の多くが、相手に幻滅したという。男性側が偽りの写真、履歴を送っていたからである。しかし、日本に帰ることはもはやままならず、新天地アメリカで暮らすことを余儀なくされた。この時の一世の男性対女性の比率はおよそ2対1であり、多くの男性が独身を通さねばならず、写真花嫁はなくならなかった。
3 移住初期
労働移民として、アメリカに渡った初期は、地域によってばらつきはあるが彼らにとって辛いことの連続だった。
「日本人が住んでいた家は、ニワトリ小屋のように狭くて小さく、改築した馬小屋のようでした。・・中略・・借地の契約が切れると、家を馬に引かせて、ほかの農場で働くために移動していました。」
『The一世 パイオニアの肖像』より
たとえ賃金が安くても、不平を言うことはできなかった。いっしょに渡米してきた子供でさえも、スクールボーイとして働いた。(いわゆる、家政婦のようなもの)子供をはじめ、多くのものは英語を解することができず、そのために待遇改善はもちろん、意思疎通さえままならなかった。
「一心不乱に働きました。英語はもちろん、アメリカについてまったく何も知らず、朝早く起き、弁当と水を持ってトラックが待っているところまでいきました。・・中略・・とにかく働きに働きました。働くことがすべてでした。」
『The一世 パイオニアの肖像』より、ある労働移民の話
どんなに辛くても、彼らはいつか日本の故郷に錦を飾ることを夢見て、働きつづけた。この中には、労働移民ではなく、安定した職を手にしたいと、農業に挑戦するものもいたが、それしても元手の金が必要であり、そこからさらなる成功を手にするには、多くの時間と運が必要とされた。
労働者として働いた場所により、彼らの待遇・成功の違いが見られるのは、
彼ら自信の運もあるが、やはり、日本人の捉え方がおのおのの地域で違ったからであろう。やがて、表面化してくる日本人に対しての敵意をその身に感じつつ、勤勉に働き続け、小さくても自分の土地をもつまでになったり、転職をして何とか中流の生活を遅れるまでになったりしていった。しかし、渡米してきた当初は「いつかは日本に・・・」と思っていても、実際に帰国したものはあまりいなかったようである。
4 帰化権の獲得にむけて
移民が集まってできた国であるアメリカでは、1790年に「帰化法」を制定し、編集を重ね、ヨーロッパ系移民、黒人には早い段階で帰化権を与えていたが、黄色人種には否定されていた。1922年には、連邦最高裁で日本人に帰化権はないと判決が下され、一世は自分が望んでも、日本国籍のままでの生活を余儀なくされた。しかし一方で、アメリカ生まれの外国人、つまり、二世は、生まれた時点で、アメリカ市民権を持つアメリカ人として、アメリカ憲法で認められていた。これは日本人の二世でも例外ではない。ところが、1924年まで日本の憲法が「世界中のどこでも日本人が父親であるならば、その子供も日本人である」としていたため、日系人の二世は二重国籍になった。(多くの二世は自分がアメリカ人であると認識していた)意識化において日系人の家庭は、親が日本人、子はアメリカ人と、家庭の中に二つの国籍があったことになる。
アメリカ国内における日系人に対する風当たりが強くなっているのを、証明するかのように「外国人土地法」が制定された。これは、外国人が土地を持つことを法律違反とするものであり、農業を第一職業とする日系一世にとっては、職を失うことを意味していた。これは、まさしく日系人狙いの法律といえる。日系一世は、アメリカ国籍を持つ自分の子供や友人の名義で土地を取得しようとしたが、これさえも憲法違反とみなされ、非難を浴び、日系人はアメリカ社会を構成する一員としてなかなか認められなかった。ただし、この行為はカリフォルニア州では是認された。多くの日系人が住み、半数近くが農業に従事しているこの州で、この行為が認められらことは、大きな意義をもつものであった。
しかし、何にせよ、生活のための手段が認められないことは、彼らにとって大きな苦しみとなり、違法手段を経てまで何とかしようとしたものもいれば、あきらめて転職したものもいて、混乱を招くこととなった。
5 子供の教育
アメリカで日系人が平和に暮らしていくためには、外面的同化(服装など)と、内面的同化、アメリカ社会の価値観の吸収が必要であった。
一世は、自分たちがアメリカ人として認められない苦しみから、自分の子供である二世にはできる限りの教育を施そうと苦心した。一刻も早くアメリカ社会に受け入れられるには、高い教育こそが必要であると考えたのである。自分と同じように農業者となるよりも、教養を身につけ、政治の風向きに左右されない職につき、同時に他のアメリカ人から侮蔑ではなく尊敬を得るのには、教育しかないと考えたのであろう。たとえ貧しくとも、それが社会に受け入れられるための最短のコースであると信じ、一世は、自分の子供の教育に力を注いだ。また、それによって子供がアメリカ社会を理解し、吸収してくれることを望んだのである。
「・・我慢をして、子供たちのすばらしい未来に夢を託すしかありませんでした。」
『The一世 パイオニアの肖像』より
もともと日本では家族の地位と調和が個人より重んじられ、家族一人一人の行動が家族全体の名声につながるという考えが浸透している。加えて、教育を重視する儒教伝統から、一世は強い影響を受けていた。
「一世たちは息子や娘の優れた成績を誇りに思っていた。子供たちの幸せを第一にし、自分たちが入用とするものは最低限に抑えていた。ささやかな楽しみでも犠牲にすることがしばしばであった。」
「この国で子供たちを育てるのに、一世の両親は数多くの犠牲を払いました。私たちはいい教育を受けさせるために、できることなんでもやりました。」
『フッドリバーの一世たち』より抜粋
当然、二世のほうも親の期待にこたえるべく、苦労を重ねた。現に、二世の大学進学率、及び奨学金獲得率は、他の人種のどのグループよりも高く、1960年代には「モデル・マイノリテイ」という言葉が生まれる発端の一部にもなった。しかし、実際社会的地位の高い職につくことは難しかった。(戦後20年以上たってから、日系人はその勤勉さを評価され、地位の高い職につけるようになった)このように、帰化権問題が、日系人の教育に対する異様なまでの関心の高さと、それによるジェネレーション・ギャップを生み、助長したのだといえよう。
6 日系人社会の成立
二世の数が増えるにつれ、アメリカに忠誠を示そうといくつかの団体が作られるようになった。多くは、彼らの仕事仲間の域を出なかったが、だんだんと統合されて大きなものとなっていった。サンフランシスコの「アメリカ忠誠協会」はその代表例である。
1929年、そのような各地の組織を統合し、「日系アメリカ人市民協会」(通称JACL Japanese American Citizens league)が結成。以後、日本人に対する偏見と迫害に耐えながら、日系人社会の代表として、アメリカ人となる道を模索し、隔年に決意表明のための全国大会を行った。しかし、この団体も当初は、アメリカ人ではないという理由で一世をメンバーからはずし、二世と分離して考えようとしていた。一世は、アメリカの生活になかなか溶け込まず、日本人同士で固まることが多かったからである。このことからも、一世と二世の間にジェネレーション・ギャップがあったことが理解できるだろう。-
1 12/7,1941 真珠湾攻撃
1941年、12月7日に日本軍はアメリカ真珠湾基地を奇襲。この事件の裏には、多くの思惑があるようである。アメリカ側は、事前に日本側の攻撃をつかんでいたようであるが、真実は明らかにされていない。
この真珠湾攻撃の時から、一世は「敵性外国人」とみなされ、二世・三世も不信と侮蔑の目で見られるようになった。この日の夕方から「敵性外国人法」に基づいてすでに作成済みであった日系人の名簿(大統領の極秘命令で、参戦する前の11月に作成)をもとに、日系社会のリーダーであり、アメリカに批判的であるとされたものが、次々逮捕された。わずか3日間の内に1291名、2月上旬までに2192名が逮捕。この他、財産の凍結、生命保険の停止、武器・カメラの提出、夜間の外出禁止、長距離移動の禁止の命令が立て続けに出され、日系社会は恐慌状態となった。
実は、アメリカ政府中枢部は、「国内における日本人の破壊工作は、ありえない」という認識をもち、「二世の90%、一世の75%以上がアメリカに対し、完全に忠誠である」との正式報告を受けてさえいた。
しかし世論は「日本人」を責めたて、真珠湾に対する根拠なき流言が生まれて、ついには日本人集団排除まで声が高まっていった。
2月19日、大統領行政命令9066号にサインがされ、多くの日系人が住んでいる太平洋岸を軍事地域として指定し、ここからすべての日系人を強制的に立ち退かせる権限が軍に与えられたのである。
2 強制収容所
12万名の日系アメリカ人は、僅かな準備期間が与えられただけで立ち退きが迫られた。それまで辛苦の上に蓄えてきた家財は二束三文で売りはらわなければならず、全米16ヶ所の集結センターに追い立てられた。この集結センターというのは、元競馬場・博覧会場、家畜品評会場であり、当然のことながら衛生設備などなく、多くは環境が厳しいところにあった。
この集結センターで約100日あまり過ごした日系人は兵士に監視されながら、遠く離れた全米10ヶ所の戦時再定住センターに移された。これらのセンターは、有刺鉄線に囲まれ。武装兵が監視し、荒野の果てにあった。日系人はここで長くて4年間もの間、屈辱の抑留生活を強いられたのである。一般に、日系人収容所とは、この戦時再定住センターのことを指す。60年代に入ると、強制収容所と呼ばれるようになる。
3 収容所内の生活
収容所は、環境が厳しく、衛生設備も不十分であり、集団下痢・集団風邪が発生することもあった。
しかし、有刺鉄線の外のアメリカ社会と同じような生活を送るために、学校、図書館、病院、新聞社、教会などが作られ、外に出られないということを除けば、前の暮らしと何ら変わらない状況が作り出された。収容所内には「共同管理組合」が作られ、収容所内の日系人の生活を保つために、管理をしたり、どんの仕事に対しても月19ドルを給与していたりした。また、外からアメリカ人の友人が訪ねてきて,面会するのも許されていた。
1つの家庭を1グループととらえ、住居が割り当てられていた。ただし、食べ物は1つの建物に集まって、食堂で食べるようにされていた。これが、ますますジェネレーション・ギャップを促進させることとなった。家族単位で集まって行動する日系人の典型的な様子は見られず、年代ごとに集まるようになったのである。食事の内容に関しては、それぞれの収容所、または個人差でばらつきが見られるが、日系人の3分の一が「食事がまずい」、もう3分の一が「食事がおいしい」と答えたのは、当時の生活レベルの差が、如実に現れているといえるだろう。
「キャンプの大部分の人間は、心理的に傷つき、ひどく困惑し、感情を表さないことの多い集団であった。・・中略・・若者ほどアメリカ人として認められたいという願望を持ったが、その親たちは疲れきり、不安におびえながらこの単調な暮らしに慣れてきてしまっていた。」
『ジャパニーズ・アメリカン』より
特に厳しい労働をさせられたという記録は残っていない。しかし、隔離という状態が、日系人の心に深く影を落としていたのは言うまでもないだろう。
4 収容所内での対立
二世団体のJACLは,日系社会の混乱と動揺に耐えながら、強制立ち退きに抵抗することの無意味さを悟り、政府に対して協力的な態度をとっていた。そのことをより示すため、退去政策に同意、日系人に呼びかけまで行った。そのため一部の日系人から「裏切り者」と非難され、どの収容所でも対立が起こった。
しかし、立ち退きの際、アメリカの軍隊・警察に反抗したという事実はない。どの日系人も整然と指定時間・指定場所に現れた。(立ち退きは集合制)
1942年、JACLは各収容所から代表を集め、徴兵義務の復活を主張した。もちろん、自分たちを追い込んだ国のために命までささげることに対し、大きな躊躇を感じたものは多かったが、最終的にはこれに合意した。この結果に憤慨した一部の日系人が、代表者を襲う事件までに発展した。
後に、どうして日系アメリカ人は、アメリカ政府のやり方に対して反抗しなかったかという疑問が多く投げかけられた。もちろんいくつかの個人抵抗はあったが、もし、実際に武力による集団抵抗をしていたとすれば、その結果は恐ろしいものであっただろう。JACLは、アメリカの犬とののしられ、のちのちまで日系アメリカ人に信用されないこととなるが、当時の追従政策は賢明なものであったと思う。アメリカ政府に対する心の中の不満が、そのままJACLへの不満に転化したのも理解できる。
5 忠誠審査
1943年、1月下旬、軍部は二世からなる部隊を再編することを決定。そして、18歳以上の男子に質問表を用意した。このとき「出所許可申請書」が問題を招いたのである。問題個所は以下のとおり。
第27問 あなたは合衆国軍隊に入り、命令されるいかなるところにおいても、戦闘任務につくことを誓いますか。
第28問 あなたは合衆国に対し、無条件に忠誠を誓い、外国・国内勢力によるいかなる攻撃からも、誠意を持って合衆国を防衛することを誓いますか。また、日本国天皇やほかの外国政府・権力、組織に対して、忠誠心を抱いたり命令に服従したりしないことを誓いますか。
この質問は、日系人に苦しい選択を迫るものであった。一世に対しては、法律によりアメリカ国民になることを否定しておきながら、事実上日本国籍を放棄し、無国籍になることを強いるものであり、二世にとっては、市民としての権利を剥奪しておきながら、アメリカの正義なるもののために生命を捨てよと要求する、理不尽なものであった。物理的抵抗を試みることもなく、ただ言われるままに従順に退去・拘留命令に従ったことで、アメリカへの忠誠心は十分に立証されたものと考えている彼らにとって、これは絶対に承諾できるものではなかった。この忠誠登録を機に、アメリカ国籍離脱と、日本送還を求めるものが相次いだ。「市民としての権利が回復されるなら、喜んで応じましょう」と条件付きで答えるものもいた。
これを受けて、政府が質問表を変更し、JACLがイエスと答えることを説得したため、最終的には多くの人がイエスと答えた。登録対象者約78000名のうち、その87%が無条件忠誠を誓った。しかし、第28問にノーと答えた6700名、条件付き・無回答の約2000名が不忠誠とされた。中でも最も激しく反発したツール・レイク収容所では、対象者の3分の一にあたる3216名が忠誠の意思表示を拒否した。これらの人々は、後に「ノー・ノー・ボーイ」と呼ばれるのである。
「難しい選択であった。・・中略・・ただ、これが私の家族が偏見や迫害を受けずに、カリフォルニアに再定住できる唯一の方法だろう」
『カリフォルニア日系人収容所』より
この忠誠審査の結果、多くの家族の中で、対立・別離が生まれ、世代間の分裂も起こった。
そして、不忠誠者をカリフォルニアのツール・レイク収容所に集め、忠誠者と隔離させることになった。よって、ツール・レイクは、合衆国に対する不忠誠者であふれ、闘争が頻繁に起こるところとなり、暴動沈静化のため軍隊が置かれ、2ヶ月以上も戒厳令が出される事態まで起こった。
6 日系人部隊
忠誠登録を経て兵役を志願し、実際兵役につけたのは僅か815名だった。これにハワイからの日系兵を合わせて第四四二連隊戦闘部隊が結成。
彼らは、激戦地であったイタリア戦線に派遣され、ドイツ軍と戦った。そのころ、テキサスの歩兵部隊がドイツ軍の猛攻を受け、全滅に近い大打撃を受け、孤立無援の状態に陥った。新聞では「ロースト・バタリオン」(失われた部隊)と報道されたほどであった。
このときこの部隊を救おうと、信じがたい奇跡的な戦いぶりを見せたのがこの四四二連隊戦闘部隊であった。この部隊のスローガンは「Go For Broke!」(倒れるまでやれ!)であった。多くの犠牲者を出しながらも、このテキサス部隊の救出に成功。この時のテキサスの兵士たちは、歓声を上げて二世兵士に抱きつき、涙を流して喜んだという。
「混戦の中に、青い星条旗が見えたような気がした。・・中略・・その後ろに多くの東洋人の顔が見えた。彼らはこう叫んでいた。『われわれアメリカ人の仲間はどこだ?』その瞬間、泥と血にまみれた彼らの顔が神のように見え、私たちは彼らに向かって呼びかけた。『同胞よ、ここだ!』と」
『アメリカの歴史』より
「多くの仲間が死んでいった。テキサス兵を探している中で次々と撃たれ、倒れていった。・・中略・・その中でぼろぼろの星条旗と、見慣れた戦闘服の一団をみつけた。こちら側の星条旗を振り回し、味方であることを伝えた瞬間、彼らは飛びついてきた。『おお、兄弟よ!』なりふりかまわず抱き合い、泣きあい、喜び,お互いに叫んだ。『アメリカ万歳!』
『大和魂と星条旗』より
イタリアドイツ降伏にいたるまでに,10000名近い死傷者を出しながら輝かしい功勲績を立て、ものの見事にアメリカへの忠誠を証明して見せたのである。勲章を授けられた数も多く、アメリカ軍の歴史の中でも最高の部隊となった。しかし、どのような武勲を立てたとしても,遺骨となってアメリカに戻り、鉄柵に囲まれた収容所の中にいる両親にその骨が渡されるというのは,何という悲劇であったろうか。
また、陸軍は対日戦争に備えて、情報機関語学校を作っていた。いわゆる、日本語通訳や翻訳兵の育成機関である。46年に閉鎖されるまで、約6000名が卒業していった。
このうち、3700名が太平洋戦線に従軍、「二世語学校のおかげで、太平洋戦争は少なくとも2年は短縮された」といわれるほど、貢献した。皮肉なことではあるが、「キベイ」と称され、最も危険視された二世(アメリカで生まれ、日本で教育を受け帰国した者)がもっとも有能な捕獲文書の翻訳、捕虜尋問の通訳をし,』その能力を遺憾なく発揮した。かつては日本の文化と言語に精通していることで非難されたその知識が、逆に軍の秘密兵器として重用されたのである。
結局、第二次世界大戦に従軍した日系人のその比類なき忠誠心と、勇猛果敢なる行為が、その後のアメリカ人の、日系人に対する感情を変え、結果的に日系人の社会復帰に大いに貢献したのである。しかし、それは多大なる犠牲を払うものであった。
1 日系人の解放
日系アメリカ人を収容するのには、ほんの数ヶ月しか必要としなかったが、すべての日系人を解放するためにはおおよそ4年を必要とした。解放政策は1942年から始まっており、ようやく1944年11月に日系人集団排除令の解除が正式決定され、翌年に発行された。しかしすべての日系人に許されたわけではなく、主にツール・レイクにいたものはまだであった。翌年、日本の降伏を見越して、危険視された人々の強制送還が決まる。
こうして、戦時再定住センターという名の強制収容所は、1945年の10月から12月の間までに次々と閉鎖された。
12000名の抑留者中、太平洋岸の故郷に戻ることができたのはそのうちの約半分であった。ほかに定住の地を求めたのが、53000名であり、そのうちの約半分がイリノイ州シカゴに集中した。これは、シカゴにおける労働需要が高く、人種的偏見が比較的少ないからと考えられる。東部に移住した日系人は、敵意よりも好奇心の目で見られたという。
しかし、仕事や居住地を見つける際に、人種偏見と戦わなくてはいけなかったことは言うまでもない。
2 日系アメリカ人賠償請求法
1952年、アジア系の人々に帰化市民となることが許された。同時にアジア系アメリカ人を差別していた州法も廃止され始めた。
1948年、政府は日系アメリカ人社会が受けた損失の補償に第一歩を踏み出した。トルーマン大統領が、日系アメリカ人賠償請求法を承認させるべく、議会に働きかけたのである。すべての不動産をカバーするというこの法律は、
象徴的なものとなったが、金銭的な清算からするとまだまだであった。
多くの年月をかけて、ようやく1976年、アメリカ独立祭の一環として、フォード大統領は、ルーズベルト大統領の第9066号を破棄し、「誠実な清算」は「国家の偉業」と同じように「国家の過ち」を検証しなければいけないとした。これは、正式な謝罪とみなされている。
実際に支払いが行われたのは、1990年。実に抑留開始より半世紀もあとのことであった。この年より前になくなってしまった人には、何も保証はされなかった。司法省の式典で100歳以上となった最高齢者に、20000ドルの小切手がはじめて渡された。それには、ブッシュ大統領の謝罪文が添えられていた。
「謝罪と保証金だけでは、失われた年月を回復し、苦痛に満ちた記憶を消し去ることはできません。・・中略・・私たちは過去の過ちを完全に是正し、償うことはできません。しかし、あくまでも正義を護ろうという決意を明らかにし、日系アメリカ人の方々に重大なる不正義がなされたことを認めることはできます。心からの謝罪を表明し、償いをなす法律を制定することによって、あなた方の仲間、アメリカ国民は、自由と平等と正義の名のもと、アメリカの理想にまい進しようと決意したのです。」
1993年12月までに、その支払いを受けたものは79155名、総額150億8310万ドルに達している。
3 賠償請求運動
アメリカ政府の賠償は、自発的なものではなく、日系アメリカ人とその協力者側からの働きかけの結果である。それにより、世論が動き、政府が動いたのである。
しかし、はじめから日系人が賠償に向けてまとまっていたわけではなく、いくつかのグループに分かれてしまい、賠償そのものに反対する日系人までいたのである。彼らの多くは、収容所で過ごした日々を忘れたがり、静かに過ごしたいと願っていた一世であった。
それでも、多くの若い日系アメリカ人の説得や、周りの支援者が運動を展開したのである。政治家にアプローチしたり、メディアに協力を求めたり、自ら政治家になったりと、彼らは、アメリカ人として、真に社会に認められることを望み、そして、アメリカ人の過去を知ってもらうために多くの努力を重ねたのだ。
4 あとがき
このレポートを作成するにあたり、また新しく本をいくつか読んだが、そのどれもがずいぶん昔に出版されたものであり、また人の記憶に頼る部分があるために、いくつか史実の食い違いがみられた。これはすなわち、次第に風化の道をたどっているといえるのではないだろうか。
もはや、半世紀以上も前のことになってしまった、第二次世界大戦ではあるが、この期間に何が行われたか、そしてそれが今にどうつながっているのかを
知ることは大切なことだと思う。
戦争を体験したことがないものが4分の3以上を占める中だからこそ、この私たちは戦争の傷跡を知らなくてはいけないのである。
今回のテーマであった「日系アメリカ人」は、今やアメリカ社会の一員として認められ、活躍の場を広げてきている。このような過去にとらわれる必要はないが、過去を知った上で付き合っていくことが、健忘症といわれる私たち日本人には必要なのではないだろうか。
最後ではあるが、収容所に入ったことで心に深い傷を負われた日系アメリカ人の方々、すでにご高齢になっていらっしゃるであろう方々に-、敬意を表したい。
参考文献 順不同
カリフォルニア日系知識人の光と影 松下志郎 明石書店
アメリカ在住日系人・強制収容所の悲劇 大谷康夫
罪なき囚人たち ロジャーダニエル 南雲堂
アメリカン・ヒストリー A・ラドキ
The一世 A・スナダ編 読売新聞社
フッドリバーの一世たち リンダ・タムラ メイナード出版
ジャパン・ボーイ ジョイ・コガワ 角川書店
米国抑留記 伊藤憲三 鹿島出版
大和魂と星条旗 トマス・K・タケシタ 朝日出版
ジャパニーズ・アメリカン R・ウィルソン
日本の兵隊を撃つことはできない デイ多佳子 芙蓉書房
二つの祖国 山崎豊子 新潮社
[ソウル 17日 ロイター] 17日のソウル株式市場で、サムスン電子(005930.KS: 株価, 企業情報, レポート)の株価が4%超下落している。海外証券会社からの売りがかさんでいることが背景。同社株は前日3カ月ぶり高値を付けていた。
取引所のデータによると、大量の売りを出しているのはメリルリンチやクレディ・スイスなど。
0332GMT(日本時間午後零時32分)時点で、サムスン株は3.9%安。総合株価指数.KS11は0.7%安。
日本のいつもの見直しで~とか、断固として~とかだけでは
大して売られないですね。
ほんとアキヒロに比べ日本人は、つまらん。
つまらんならつまらんなりに、例えば、
日本としてはアキヒロの命があるだけでも
日本の最大な温情である。
しかしながらこれからの国交には期待を持たないでいただきたい。
もう知らん。
で、良いじゃないか。
②日本政府:デフレ脱却を展望、16年ぶりに名実逆転-来年度成長率
8月17日(ブルームバーグ):日本政府は来年度の経済成長率で、名目が実質を下回る名実逆転が16年ぶりに解消する見通しを打ち出した。東日本大震災からの復興需要などが成長を押し上げるとしている。
内閣府が17日発表した2013年度の国内総生産(GDP)成長率の試算は、実質1.7%で名目1.9%。総合的な物価動向を示すデフレーターは0.2%上昇と1997年以来のプラスに転じる。足元の経済は「緩やかに回復しつつある」として、今後も復興需要のほか雇用・企業収益改善を受けた消費などの民間需要で「緩やかに回復していく」と予想した。
内閣府はこのGDPの試算について「種々の不確実性を伴うため、相当な幅を持って理解される必要がある」と指摘した。12年度GDP成長率は実質で2.2%、名目で1.9%としている。内閣府は情報通信やエネルギー分野をあげて、民間設備投資の増加も予想した。
取引所のデータによると、大量の売りを出しているのはメリルリンチやクレディ・スイスなど。
0332GMT(日本時間午後零時32分)時点で、サムスン株は3.9%安。総合株価指数.KS11は0.7%安。
日本のいつもの見直しで~とか、断固として~とかだけでは
大して売られないですね。
ほんとアキヒロに比べ日本人は、つまらん。
つまらんならつまらんなりに、例えば、
日本としてはアキヒロの命があるだけでも
日本の最大な温情である。
しかしながらこれからの国交には期待を持たないでいただきたい。
もう知らん。
で、良いじゃないか。
②日本政府:デフレ脱却を展望、16年ぶりに名実逆転-来年度成長率
8月17日(ブルームバーグ):日本政府は来年度の経済成長率で、名目が実質を下回る名実逆転が16年ぶりに解消する見通しを打ち出した。東日本大震災からの復興需要などが成長を押し上げるとしている。
内閣府が17日発表した2013年度の国内総生産(GDP)成長率の試算は、実質1.7%で名目1.9%。総合的な物価動向を示すデフレーターは0.2%上昇と1997年以来のプラスに転じる。足元の経済は「緩やかに回復しつつある」として、今後も復興需要のほか雇用・企業収益改善を受けた消費などの民間需要で「緩やかに回復していく」と予想した。
内閣府はこのGDPの試算について「種々の不確実性を伴うため、相当な幅を持って理解される必要がある」と指摘した。12年度GDP成長率は実質で2.2%、名目で1.9%としている。内閣府は情報通信やエネルギー分野をあげて、民間設備投資の増加も予想した。
★米政府「話し合いで解決を」挑発行動に自制求める★
テレビ朝日系(ANN) 8月16日(木)13時11分配信
アメリカ国務省は、「挑発ではなく、話し合いで解決するよう」求めました。
米国務省・ヌーランド報道官:「日本と中国で一緒に解決してほしいということ以外はない。どちらの側にもつかないが、挑発的な行動ではなく、話し合いで解決する必要がある」
また、アーミテージ元国務副長官は、アメリカは尖閣諸島も含めて日本を守る義務があるとしつつ、日中の衝突を避けることが大きな利益だと強調しました。
アーミテージ元国務副長官:「米国には日米安保条約の下で日本の領土を守る義務があり、それには尖閣諸島も含まれる。ただ、あらゆる影響力を使って日本と中国の衝突を避けることが米国にとっても大きな利益だ」
アーミテージ氏は、日米同盟に関する報告書で、中国の軍事力拡大に対応できる力を日米が持つべきと提言しています。
あんれ???
中国にとってオスプレイは驚異じゃなかったんですかね???
大枚はたいたオスプレイどうすんだい。
もったいないからオスプレイの中で『話し合い』しなさいよ。
まぁ。あんまり日本を舐めないで頂きたいですよね。
どいつもこいつもってことですよ。
終戦記念日のきのう、松原国家公安委員長と羽田国土交通相が、靖国神社に参拝した。
政権交代を果たした09年の総選挙で、民主党は「首相や閣僚の公式参拝には問題がある」と政策集に明記した。
民主党政権になってこれまで2度の終戦記念日は閣僚は参拝せず、野田内閣も発足時に「首相、閣僚は公式参拝しない」と申し合わせていた。
2閣僚はともに「私的」な参拝だと強調し、藤村官房長官も追認した。「公式」な参拝でなければ、党の公約や内閣の方針と矛盾しないと考えたようだ。
だが、その理屈は通らない。
靖国参拝をふくめ、一般の国民がそれぞれのやり方で戦没者を弔うのは自然な感情だ。
一方で、靖国神社には先の大戦の指導者であるA級戦犯が合祀(ごうし)されている。
そこに首相や閣僚が参ることに違和感を抱く国民は少なくない。侵略された中国や、植民地支配を受けた韓国に快く思わない人が多いのも理解できる。
首相や閣僚は、日本を代表する立場の政治指導者だ。一政治家でも一国民でもない。公的な配慮を何よりも優先すべきことは言うまでもない。
小泉元首相の靖国参拝は、中韓両国の猛反発を招いた。両国の参拝中止の要求が、逆に日本では「内政干渉は許されない」とのナショナリズムを沸き立たせた。まさに悪循環だった。
その教訓を重く受け止めたからこそ、民主党は政権交代後、繰り返し「首相や閣僚の参拝自粛」を確認し、それを実行してきたのではなかったか。
折も折、日本の植民地支配からの解放を祝う「光復節」の前日、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が、謝罪を天皇訪韓の条件にするともとれる発言をした。
韓国内には、韓国併合や旧日本軍の慰安婦問題をめぐって強い対日批判がある。それをあおるかのような大統領の発言を、野田首相が「理解に苦しむ」と批判したのは当然のことだ。
一方、きのうの光復節の演説で大統領は、日本について「未来をともに開いていかねばならない重要な同伴者」と位置づけ、激しい対日批判は控えた。
急変に戸惑うが、歴史に向き合いつつも、未来志向を基本として進むしか道はない。
変化の兆しのある北朝鮮との外交。さらには、共益を高める経済連携の強化。日本と近隣諸国には共通の課題が山積みだ。
歴史をめぐる溝は、互いにいがみ合うことでは埋まらない。近隣での共同作業の積み重ねこそが、時代の要請である。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
李明博大統領「天皇は土下座せよ」
李明博(イ・ミョンバク)大統領が日本軍慰安婦、歴史教科書歪曲など過去の問題と関連して連日外交上の慣例を越える強硬発言をしており、その背景に関心が集まっている。
去る10日、大韓民国大統領として初めて独島(ドクト、日本名:竹島)を訪問した李大統領は、14日には日王まで取り上げて過去の問題の早急な解決を促した。
李大統領のこのような対日攻勢は現政権だけでなく次期政権にも外交的負担として作用するという指摘が出ている。李大統領はこの日、忠北(チュンブク)清原(チョンウォン)郡、韓国教員大学を 訪問した席で‘独島訪問’に対する質問が出るとすぐ決心したように直接的に日本を追い詰めた。
李大統領は現場で日王が「ひざまずいて」謝らなければならないという表現を使ったことが分かったが、その後、大統領府が公開した発言録からは抜けていたことが確認された。
15日公開される光復節祝辞でも李大統領は日本軍慰安婦など過去の問題についても過去とは違って具体的に断固たるメッセージを伝える可能性が高いと見られる。
キム・ソンス、ハ・ジョンフン記者
ソース:ソウル新聞(韓国語) 「日王ひざまずけ」
http://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20120815003005
私は韓国語が分かります。跪いて謝れ以上の表現を使ったのです。
原文を直訳すると、「ひざを縛って」という意味になります。
これは昔、罪人を高手小手に縛ってひざまづかせたことに由来しており、
明らかに天皇陛下を犬以下の大罪人に見立てた表現です。
もう流石の朝日新聞さんでさえ手に負えないところまで来ているようですね。
与論操縦の記事が無駄骨~~~。
政権交代を果たした09年の総選挙で、民主党は「首相や閣僚の公式参拝には問題がある」と政策集に明記した。
民主党政権になってこれまで2度の終戦記念日は閣僚は参拝せず、野田内閣も発足時に「首相、閣僚は公式参拝しない」と申し合わせていた。
2閣僚はともに「私的」な参拝だと強調し、藤村官房長官も追認した。「公式」な参拝でなければ、党の公約や内閣の方針と矛盾しないと考えたようだ。
だが、その理屈は通らない。
靖国参拝をふくめ、一般の国民がそれぞれのやり方で戦没者を弔うのは自然な感情だ。
一方で、靖国神社には先の大戦の指導者であるA級戦犯が合祀(ごうし)されている。
そこに首相や閣僚が参ることに違和感を抱く国民は少なくない。侵略された中国や、植民地支配を受けた韓国に快く思わない人が多いのも理解できる。
首相や閣僚は、日本を代表する立場の政治指導者だ。一政治家でも一国民でもない。公的な配慮を何よりも優先すべきことは言うまでもない。
小泉元首相の靖国参拝は、中韓両国の猛反発を招いた。両国の参拝中止の要求が、逆に日本では「内政干渉は許されない」とのナショナリズムを沸き立たせた。まさに悪循環だった。
その教訓を重く受け止めたからこそ、民主党は政権交代後、繰り返し「首相や閣僚の参拝自粛」を確認し、それを実行してきたのではなかったか。
折も折、日本の植民地支配からの解放を祝う「光復節」の前日、韓国の李明博(イ・ミョンバク)大統領が、謝罪を天皇訪韓の条件にするともとれる発言をした。
韓国内には、韓国併合や旧日本軍の慰安婦問題をめぐって強い対日批判がある。それをあおるかのような大統領の発言を、野田首相が「理解に苦しむ」と批判したのは当然のことだ。
一方、きのうの光復節の演説で大統領は、日本について「未来をともに開いていかねばならない重要な同伴者」と位置づけ、激しい対日批判は控えた。
急変に戸惑うが、歴史に向き合いつつも、未来志向を基本として進むしか道はない。
変化の兆しのある北朝鮮との外交。さらには、共益を高める経済連携の強化。日本と近隣諸国には共通の課題が山積みだ。
歴史をめぐる溝は、互いにいがみ合うことでは埋まらない。近隣での共同作業の積み重ねこそが、時代の要請である。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
李明博大統領「天皇は土下座せよ」
李明博(イ・ミョンバク)大統領が日本軍慰安婦、歴史教科書歪曲など過去の問題と関連して連日外交上の慣例を越える強硬発言をしており、その背景に関心が集まっている。
去る10日、大韓民国大統領として初めて独島(ドクト、日本名:竹島)を訪問した李大統領は、14日には日王まで取り上げて過去の問題の早急な解決を促した。
李大統領のこのような対日攻勢は現政権だけでなく次期政権にも外交的負担として作用するという指摘が出ている。李大統領はこの日、忠北(チュンブク)清原(チョンウォン)郡、韓国教員大学を 訪問した席で‘独島訪問’に対する質問が出るとすぐ決心したように直接的に日本を追い詰めた。
李大統領は現場で日王が「ひざまずいて」謝らなければならないという表現を使ったことが分かったが、その後、大統領府が公開した発言録からは抜けていたことが確認された。
15日公開される光復節祝辞でも李大統領は日本軍慰安婦など過去の問題についても過去とは違って具体的に断固たるメッセージを伝える可能性が高いと見られる。
キム・ソンス、ハ・ジョンフン記者
ソース:ソウル新聞(韓国語) 「日王ひざまずけ」
http://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20120815003005
私は韓国語が分かります。跪いて謝れ以上の表現を使ったのです。
原文を直訳すると、「ひざを縛って」という意味になります。
これは昔、罪人を高手小手に縛ってひざまづかせたことに由来しており、
明らかに天皇陛下を犬以下の大罪人に見立てた表現です。
もう流石の朝日新聞さんでさえ手に負えないところまで来ているようですね。
与論操縦の記事が無駄骨~~~。
聯合ニュース 8月14日(火)18時2分配信
【ソウル聯合ニュース】韓国の国家記録院は14日、ロシア・サハリンの国立文書保管所から入手した1946年のロシア政府の報告書を公開した。
報告書によると、第二次世界大戦前、サハリンの北西部に住んでいた韓国人は1万229人だったが、戦後は5332人と半減した。ロシア政府は避難や帰還、日本による虐殺を理由としている。
建国大学のハン・へイン教授によると、報告書はロシア政府がサハリンを占領した後に記録したもの。「戦時中の敵軍に関する情報のため、誇張された可能性はあるが、韓国人減少の理由に日本軍の虐殺を挙げたのは確か」と説明した。
これまでは1945年8月21~23日に妊婦や子どもを含む46人を殺害したことが明らかになっている。今回の公開により、追加調査や日本への補償要求などが強まるとみられる。
国家記録院はロシアと日本などに強制動員された約1万2000人の名簿や手紙、家族関係、帰還などに関する記録も確保した。これまで公開された名簿の3~4倍規模に当たる。手紙や家族関係は遺族への補償の根拠になるという。
韓国政府機関「対日抗争期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者等支援委員会」などによると、現在までサハリンへの強制動員で補償を申請した件数は2225件。このうち、補償金の支給が決まったのは1292件にすぎない。
日本政府は強制動員者数は数千人程度と主張しているが、韓国では最大8万人に上るとみている。今回入手した報告書では、日本がサハリンに強制動員した韓国人は2万2817人としている。
ハン教授によると、強制動員者の名簿の一部が確認されたことはあるが、手紙や家族関係などが網羅された資料を入手したのは初めてという。
kimchiboxs@yna.co.kr
.最終更新:8月14日(火)18時2分
日本人って残虐非道で怖いのよね。
ホント日本人って極悪非道でいや~ね

でも第二次大戦後シベリア抑留を受けた日本人捕虜はこんなにも残虐非道なのに、
いまでもウズベキスタンの母たちは子供に「日本人のようになりなさい」と教えているのだそうですよ。
そんな教育をしちゃって良いんですか

ちなみに、
国立ナポイ劇場は第二次大戦前に基礎は終わっていて戦争で中断したものを日本人の部隊が投入されたようです。
戦時中の日本人の活躍をアピールすると戦争の香りがすると騒ぐアホ日本人にもいるので一応補足です。
しかし、ロシアに残る社会インフラで、ちゃんと稼動 している施設は、ほぼ日本人抑留者が造ったソ連以前の帝政ロシア時代の建造物かどちらかです。
とのことです↓
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-706.html
ウズベキスタンの方が掃除をしたり守ってきた日本人墓地なんですけど、
維持してくださっている方はボランティアだそうです。
維持するにも金がかかるのに殆どは寄付で運営されているようです。
実は日本からは援助なしなのだそうです。
・・・ホントかい

【主文】
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ オットー・フォン・ビスマルク
今から約150年前 日本が開国したとき、アジアの有色人種国家で、
完全な形で独立を維持していたのは日本とタイの二カ国だけでした。
今でも国際法の父と呼ばれているオランダの法学者グロティウスは、
世界の秩序を守るため次のような原則を作りました
「たとえその地域を事実上、支配する住民がいても、
国際法の主体たり得る国家によって支配されない限り、
無主の地であり、最初に実効ある支配を行った国家の領有が認められる」
「国際法の主体たり得る国家」
とは、言うまでもなく白人国家の事です。
大昔の話だと思いますか?
いいえ。
日本が開国した当時、北米大陸では、先住民であるインディアンの掃討作戦の真っ最中でした。
インディアンの掃討が完了し、アメリカ政府が「フロンティア(新天地)の消滅」を
宣言したのは、日本が開国してから、30年ほど後のことでした。
そんな時代に、最後の植民地候補地として門戸をこじ開けられた日本が・・・
資源も、広い国土も持たない、こんなに小さな島国が、
独立を維持し続けられたのは、まさに、奇跡としか言いようがありません
しかし、その奇跡は、神から与えられたものではありませんでした
運命に抗いあがき続けもがき続けた先人達がもぎ取った奇跡だったのです。
平和な時代を生きる私達だからこそ絶対に忘れてはならないのです。
私達の享受する、この平和で豊かな日本は
先人たちの尊い犠牲の上に成り立っているということを
国旗の重み 靖国編 ブラジルからの手紙
ブラジルのサンパウロ新聞に
「日本では靖国神社に代わる追悼施設が検討されている」
と報じられたのは、2002年6月のことでした
ブラジル人としての誇りとともに、
自分たちのルーツにも誇りを感じていた日系ブラジル人の子供達は、
このニュースに大変驚き、涙を流して悔しがったそうです
どうしてそこまで・・・と思いますか?
日本と違い、子供の頃から愛国心を教わる彼らの感性は、
「自分たちの血の誇りが傷つけられた」
と感じ取ったのです
日本語学校 松柏学園に通う、12歳から18歳の子供達も
自分は何ができるか、と真剣に考えました
そして、彼らは自分たちの思いを日本人への手紙という形でしたためました
普段ポルトガル語を使って生活する子供達が、
他国語で真面目な文章を書くのは大変な作業でした
習い覚えた日本語で、めいっぱいの気持ちを込めて一生懸命書いたそうです
「私のおばあちゃんは、日本の戦争の間に生まれました。
日本の人達はよく戦いました。
その方々がいらっしゃらなかったら、私のおばあちゃんは平和に生きられなかったでしょう。
だから、心からありがとうございます。
その時、たたかって下さった方々が、靖国神社にいらっしゃいます。
私は第十四使節団として日本へ行きます。
必ず靖国神社で、その方々にお会いしたいです。
そして「ありがとうね。おばあちゃんをまもってくれて」と祈りたいです。
靖国神社、いつまでも、いつまでも私達の靖国神社であって下さい。」
ナタリア・一美・照屋(十六歳)
「戦争が行われている時には、だれが正しいか、だれがまちがっているか、
分かることができますか。
戦争を始めた方が悪いと言いますが、いじめられて、たたかれて、だまっている人がありますか。
どんな生物でも、人間でも、心が腹立たしさであふれる時には、勇気がぱっと出てたたかうのです。
ライオンだって子犬だって同じでしょう。
昔の人達はまちがえたと言えますか。
人をころしたり、ころされたりして、そして、だれがあっていたか、だれがまちがっていたか、
決めるのはだれにもわからないのです。
だからよその国が、「あなたの方が悪かった」と言うのはまちがっています。
私達は、ほこりをもつことが大切です。
ほこりのために死んだ人達にいのります。
自分の国を、自分の家族を、自分のふるさとをまもるために、たたかった人達をそんけいしないということは、
ほんとうにはずかしいことです。
僕が今書いている文は、だれかに読んでもらえるか分かりません。
ただ、僕の気持ちは、神につたえることが出きたと思います。
靖国神社は、神様がまもって下さっている、なくなった方々の大切なお社です。
靖国神社のことを思わない人は、ほんとうにばかな、かわいそうな人です。
ブラジルの僕達もいつも祈っています。
少しのばかな人をのぞいて、世界の人達が、靖国神社の大切さが分かっていると思います。
日本人はわかっていますか。」
スワン・勇樹・浜崎(十七歳)
「二〇〇〇年十二月に、私は第十三使節団として日本へ行きました。
あそこで、沖縄や広島でおこったせんそうの事をみました。
原爆資料館や江田島や靖国神社で、いろいろなお話を聞きました。
そして、せんそうの意味が深く分かりました。
戦争がなかったら、人々は死ななくてよかったのに。
戦争というものはすごく苦しいものです。
けれど、私がもっとおどろいた事は、戦争にいった人達のすばらしい気持ちだった。
あなた方は自分の国日本をまもるために、
そして自分の家族の命をまもるために、自分の命をかけました。
あなた達は敵にふくしゅうをする気持より、
自分の国の誇りをまもるために「死ぬこと」をえらびましたね。
私はそれは本当にげんしゅくな気持であると思います。
私は江田島でこんなメッセージを見ました。
「正道一心」という書でした。
だれかが弟のために自分の血で書いたものでした。
女の子は髪の毛で「日本」と書きました。
それは私の心にふかい感動をおこさせました。
皆様、戦争で日本はまけた。
でも、あなた方の命はむだにはならなかった。
だって、今、私達も、日本の人も幸せ一杯でしょう。
だから、あなた方はなくなったけれど、その気持ちは、
いろんな人達に大切なことを教えました。
あなた方のために、今、私は一生けんめい祈ります。
そして、あなたの生命をもらって今生きているよ。
本当にありがとうございました。
日本の人、靖国神社を大切にしてください。
おねがいします。
なくなった人達に誇りをもって下さい。
おねがいします。」
ナタリア・恵美・浅村(十七歳)
「日本とアメリカといろんな国はせんそうしました。
私が生まれる前でした。
どちらが勝ちましたか。
だれも勝ちませんでした。
みんな負けたのですと私は思います。
せんどうでたたかった人たちは、日本人だけじゃなく、
どこの国のひともまつらなければならないのです。
なぜなら、その人たちはその国を、その国の人たちをまもるためにたたかったからです。
ブラジルでは、せんそうでなくなった人にとてもいのります。
でも、日本ではせんそうでなくなった人たちのために「靖国」というすばらしい神社をたてました。
それはとてもすばらしいことです。
その人たちに、死んだことがむだではなかったと思ってほしいのです。
だって私たちはその人たちのおかげでこんなに幸せなのです。
そう思うと、靖国神社を私たちは、いっしょうけんめいまもりたいです。
その人たちのいのちとおなじくらいの重さでまもりたいです」
ジュリオ・章・上田(十五歳)
「追悼・平和祈念のための記念碑など施設の在り方を考える懇談会」
は平成十四年十二月二十四日に、靖国神社とは別の「国立の無宗教の恒久的施設」が
必要だとする最終報告書を提出しました。
それによると、新施設は、近隣諸国に配慮して戦没者の「慰霊」「顕彰」は
行わないとする一方で、敵国将兵も追悼し、現行憲法に基づき、「不戦の誓い」を行う場だそうです。
参考・引用
明成社
「日本の皆様、靖国神社を守って下さい」
真倫子 川村 Mariko Kawamura編
最後までご覧いただきありがとうございました
【結び】
日教組の手の届かない、遠いブラジルの地で生まれ育った日系人の子供たちの方が、
はるかに凛々しく、正しい知識と豊かな感情を育んでいるんですね。
言葉の1つ1つが重く感動いたしました。
今の日本は懲りもせず、飽きもせず。
『反日』『反日』『あぁ。反日』キャンペーンが粛々と続けられて、
うんざりさせられています。
脂のりのりの霜降り肉も3日も食べたらあきまっせ。
ところが、あまりにもしつこいせいか、
『靖国で会おう』と散っていった英霊達への思いを強くする反動が芽生えてきているようにおもいますが。
気のせいですかね?
「どんなに日本の主権を侵害しようとも僕たちは優しく大人の対応をするから、仲良くしてね」
政府は13日、これまでに韓国と合意した金融協力を変更せず、維持する方針を明らかにした。李明博大統領が竹島に上陸したことで日韓間の緊張が高まっているが、両国経済の相互依存が深まっていることを配慮し、国際的な合意を順守することが関係改善にも重要と判断した。
日本と韓国は緊急時にドルなど外貨を融通し合う通貨交換(スワップ)協定の大幅拡充や、日本によるウォン建て韓国国債の購入で合意している。
昨年10月に合意したスワップ協定では、韓国への資金支援枠は従来の5倍以上に増え、総額700億ドル(約5兆5千億円)とした。韓国経済の安定は日本の利益にもつながるためだ。
政府、日韓の金融協力は維持 竹島上陸でも 共同通信
http://www.47news.jp/CN/201208/CN2012081301002372.html
(関連記事)「日韓通貨スワップ協定の破棄」、「日本製品の対韓輸出制限」これで韓国経済は即死!
http://blog.goo.ne.jp/toki_1/e/a7f31c1476879fdd2e83d7923a5bc7d5https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
首相官邸HP
https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
名前を書き込む必要はありませんので、
意見は直接申し渡しましょう。
スワップの管轄は財務省
財務省HP
財務行政へのご意見・ご要望の受付
https://www2.mof.go.jp/enquete/ja/index.php
韓国経済の安定が日本の利益にもつながると言うのは日本国民をバカにしているいつもの脅し文句です。
日本の利益を最優先に考える政府だったら今この時期に増税などしますか?
実際に消費税を上げた後、間違いなく税収が減ります。
経済成長率も落ちるでしょう。
その2つの点を原因に日本国債が急落する可能性はゼロではありません。
増税により日本は★税収不足、成長鈍化になり日本の国債への不安を煽り暴落させる★という道を選んだ野田内閣が、
日本の利益と言う口実を簡単に使う事は遺憾の意であります(笑)
それも日本人には増税させておいて・・・。韓国を助ける義理などどこにあるのでしょうか?
しかし、コイツラは本当に隅々まで万遍無くふざけ切ってるわ。
政府は13日、これまでに韓国と合意した金融協力を変更せず、維持する方針を明らかにした。李明博大統領が竹島に上陸したことで日韓間の緊張が高まっているが、両国経済の相互依存が深まっていることを配慮し、国際的な合意を順守することが関係改善にも重要と判断した。
日本と韓国は緊急時にドルなど外貨を融通し合う通貨交換(スワップ)協定の大幅拡充や、日本によるウォン建て韓国国債の購入で合意している。
昨年10月に合意したスワップ協定では、韓国への資金支援枠は従来の5倍以上に増え、総額700億ドル(約5兆5千億円)とした。韓国経済の安定は日本の利益にもつながるためだ。
政府、日韓の金融協力は維持 竹島上陸でも 共同通信
http://www.47news.jp/CN/201208/CN2012081301002372.html
(関連記事)「日韓通貨スワップ協定の破棄」、「日本製品の対韓輸出制限」これで韓国経済は即死!
http://blog.goo.ne.jp/toki_1/e/a7f31c1476879fdd2e83d7923a5bc7d5https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
首相官邸HP
https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html
名前を書き込む必要はありませんので、
意見は直接申し渡しましょう。
スワップの管轄は財務省
財務省HP
財務行政へのご意見・ご要望の受付
https://www2.mof.go.jp/enquete/ja/index.php
韓国経済の安定が日本の利益にもつながると言うのは日本国民をバカにしているいつもの脅し文句です。
日本の利益を最優先に考える政府だったら今この時期に増税などしますか?
実際に消費税を上げた後、間違いなく税収が減ります。
経済成長率も落ちるでしょう。
その2つの点を原因に日本国債が急落する可能性はゼロではありません。
増税により日本は★税収不足、成長鈍化になり日本の国債への不安を煽り暴落させる★という道を選んだ野田内閣が、
日本の利益と言う口実を簡単に使う事は遺憾の意であります(笑)
それも日本人には増税させておいて・・・。韓国を助ける義理などどこにあるのでしょうか?
しかし、コイツラは本当に隅々まで万遍無くふざけ切ってるわ。
岡田克也副総理は10日の記者会見で、15日の終戦記念日に靖国神社を参拝しない考えを示した。
その上で「A級戦犯が合祀(ごうし)された靖国神社に閣僚が行くことは適切ではない」と述べ、
閣僚は参拝を自粛すべきだとの考えを強調した。
安住淳財務相も会見で「母方の祖父が硫黄島で戦死しており、過去お参りしたことがある。
(今年は)残念だが、閣僚としては自粛する」と述べた。
他の多くの閣僚も終戦記念日の靖国参拝を見送る考えを示している一方、羽田雄一郎国土交通相は参拝を明言。
松原仁国家公安委員長も「20年以上参拝しており、今年も適宜判断する」と述べた。
日本の国益よりもイオンの利益の方が大事なヘビー級にイカレテイル左巻きの岡田のおっさんは放っておいて、
野田よしひこ君は、
極東国際軍事裁判に言及したサンフランシスコ講和条約第十一条ならびにそれに基づいて行われた衆参合わせ四回に及ぶ国会決議と関係諸国の対応によって、A級・B級・C級すべての「戦犯」の名誉は法的に回復されている。すなわち、「A級戦犯」と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではないのであって、戦争犯罪人が合祀されていることを理由に内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対する論理はすでに破綻していると解釈できる。
2005年に以上の事を述べていますが。。。
自分で言った事くらい責任持てよ。
もうボケちゃって忘れちゃったの?
またなかった事にしたいの?
・・・と、言うのも虚しいくらいの虚言体質で嫌になってしまう。
その上で「A級戦犯が合祀(ごうし)された靖国神社に閣僚が行くことは適切ではない」と述べ、
閣僚は参拝を自粛すべきだとの考えを強調した。
安住淳財務相も会見で「母方の祖父が硫黄島で戦死しており、過去お参りしたことがある。
(今年は)残念だが、閣僚としては自粛する」と述べた。
他の多くの閣僚も終戦記念日の靖国参拝を見送る考えを示している一方、羽田雄一郎国土交通相は参拝を明言。
松原仁国家公安委員長も「20年以上参拝しており、今年も適宜判断する」と述べた。
日本の国益よりもイオンの利益の方が大事なヘビー級にイカレテイル左巻きの岡田のおっさんは放っておいて、
野田よしひこ君は、
極東国際軍事裁判に言及したサンフランシスコ講和条約第十一条ならびにそれに基づいて行われた衆参合わせ四回に及ぶ国会決議と関係諸国の対応によって、A級・B級・C級すべての「戦犯」の名誉は法的に回復されている。すなわち、「A級戦犯」と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではないのであって、戦争犯罪人が合祀されていることを理由に内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対する論理はすでに破綻していると解釈できる。
2005年に以上の事を述べていますが。。。
自分で言った事くらい責任持てよ。
もうボケちゃって忘れちゃったの?
またなかった事にしたいの?
・・・と、言うのも虚しいくらいの虚言体質で嫌になってしまう。
今日は、ナンプラーを使ってベトナム料理のフォーをそうめんで作ってみました。
汗をかきながら食べた後は、なんか涼しさを感じる。
これからお付き合いでボーリングに行ってきます。
足が痛いので私はしません。
見ているだけぇ( ゚д゚ )
汗をかきながら食べた後は、なんか涼しさを感じる。
これからお付き合いでボーリングに行ってきます。
足が痛いので私はしません。
見ているだけぇ( ゚д゚ )

