映画「茜色に焼かれる」は2021年製作、石井裕也監督の日本映画である。
知り合いが Facebook で主演の尾野真千子さんを絶賛していたところ、Amazon Prime で会員無料だったので観てみることにした。
【ストーリー】
「まあ、頑張りましょう。」
その一言で日々のやるせない感情を鎮めて日々を過ごす母・田中良子。幼い頃に交通事故で父を亡くし、混沌とした時代と社会の中で、実直に自らの正義を見出さんとする中学生の息子・純平。母ひとり、子ひとり、互いの日常を取り巻くことごとく理不尽な出来事に、張り裂けそうな想いを抱えてこの世界を生きている。どんな困難でも、何が起ころうとも、それでも前を向き、信念を貫ける理由とは?これは、圧倒的な愛と希望の物語。※上記バナーの Amazon 商品サイトより引用
石井裕也監督の作品は、このブログでも過去に2013年製作の「舟を編む」を紹介している。
この間の作品については下記の映画.com のサイトを参照されたい。
また、主演の尾野真千子さんのインタビュー記事も掲載されている。
実際に観てみると、確かに尾野真千子さんの熱演はなかなか良かったのだが、上記のストーリー紹介にあるように「圧倒的な愛と希望の物語。」という感じはしなかった。
作品全体としては、コロナ禍というきっかけによって表面化した「今の社会は実はこんなに生きにくい社会である」という現実を意欲的に描いている作品という印象であった。
この作品では石井裕也監督自身が脚本を書いているので、実際のところはどうなのだろうと思い、インタビュー記事を探してみた。
このインタビュー記事での監督の言葉こうであった。
「こういう大変な状況でないがしろにされている個人の感情を、映画監督としてどうしても描かなきゃいけないと思いました。誰もが世の中の理不尽さに怒りを覚えている。今の時代にしか描けない愛や希望を映画にしたいと思いました」
ロングインタビューの記事もあったので、こちらも挙げておく。
このインタビューでは、「茜色に焼かれる」というタイトルに込められた意味についても語られているが、これについては後述したい。
ということで、そろそろ本題の感想に入りたいと思う。
以下、本題(ネタバレあり注意)
自分なりの感想を書くにあたって、前掲の Amazon 商品サイトのストーリー紹介はしっくりこない感じがするので、まず映画.com の記事からあらすじを再掲する。
7年前、理不尽な交通事故で夫を亡くした母と子。母の田中良子はかつて演劇に傾倒していたことがあり、芝居が得意だった。ひとりで中学生の息子・純平を育て、夫への賠償金は受け取らず、施設に入院している義父の面倒もみている。コロナ禍により経営していたカフェが破綻し、花屋のバイトと夜の仕事の掛け持ちでも家計は苦しく、そのせいで息子はいじめにあっている。そんな彼女たちが最後まで絶対に手放さないものがあった。社会的弱者として世の中の歪みに翻弄されながらも信念を貫き、たくましく生きる母の良子を尾野が体現。
※映画.com の上記バナーの記事より抜粋して引用
まともとは何かということ
序盤に、夫を車で轢いた老人をなんで怒らないのかと息子が良子に訊く場面がある。
あの事故の意味をこの七年間ずっと考えていると前置きした後で、良子はこう言うのだった。
まともに生きてたら、死ぬか、気が違うか、そうでなければ宗教に入るか。
この三つしかないでしょ。えっ、漱石読んでないの。
漱石が書いてるよ。
そして、良子自身は決して納得してはいないのだが、「まぁ、がんばりましょう」と言って息子をなだめている。
世間の言うところの「まとも」に生きて怒って悩んでいたら、死ぬか気が違うか宗教に入るかしかないから、良子は世間の言うところの「まとも」であるよりも自分の信念に忠実に生きている。
夫への賠償金は受け取らず、施設に入院している義父の面倒をみて、夫の愛人の子どもの養育費も払い、花屋のバイトと夜の風俗の仕事をしながら自分の信念に忠実に生きている。
世間の言うところの「まとも」な神経ではないが、自分の信念に忠実という意味においては「まとも」である。
そんな良子はバイト先の花屋で、廃棄される花を持って帰っているのを上司に咎められる。
その後、良子は廃棄される花を自腹で買って帰る。
それを見た店長の苦々しい表情は、社会のルールのゴリ押しに対して真っ直ぐ反応する純真さに戸惑う周囲の象徴であるように見えた。
個人を縛る社会のルールや圧力に取り込まれている側からすると、良子のような存在は良心が残っている人ほど痛いものであろう。
この後、息子のいじめの件を担任の教師に連絡するが、この教師はなかなか良子に会おうとしなかった。
ようやく担任に会うと、バタバタしてたものでと言い訳をする担任に向かって「責任感のない卑怯な人間」だと言う。
ここまで言うとはなかなか手厳しいという印象を持ったが、この印象の程度こそは、自分の世間的な意味での「まとも」具合の程度なのだと思われた。
尚、後で確認したところ、漱石の言葉の出典は「行人」の塵労編39章であった。
妻お直と弟二郎の仲を疑う一郎は妻を試すために二郎にお直と二人で一つ所へ行って一つ宿に泊ってくれと頼む…….知性の孤独地獄に生き人を信じえぬ一郎は,やがて「死ぬか,気が違うか,それでなければ宗教に入るか」と言い出すのである.だが,宗教に入れぬことは当の一郎が誰よりもよく知っていた.
※上記バナーの Amazon 商品サイトより引用
漱石の「行人」は青空文庫で読める。
良子の葛藤と矛盾
中盤でまた、息子にムカつかないのかと訊かれる場面がある。
夫の七回忌の席で、夫がやっていたバンドのメンバーの一人に言い寄られた母親が、母親を金で買うような言い方をされていたことに、息子は腹が立っていたのである。
良子は、「自分たちがしっかりしてればいいでしょう」と言うがおさまらない息子は、「もしかして、なんでもない振りしてるの」と迫る。
そして、「まぁ、たまにね」と言ったあとで、「まぁ、がんばりましょう」と息子をなだめて終わる。
この後から、「まぁ、がんばりましょう」と言いながら、自分自身に忠実に生きている良子の内実が明らかになってくる。
良子自身は自分自身に忠実に生きているが、世間の言うところの「まとも」ではない生き方が、そんなに上手くいく筈もない。
良子にも矛盾しているところはあるし、葛藤もある。
そして、中学の同級生との再会した良子は恋愛感情を持つようになるが、相手の同級生の方は良子との関係を遊びだと思っていたことが発覚する。
相手の男を神社に呼び出して、
「舐められた、悪いけど、私は舐められたと思っている。」
と言う。
そして、
「おい、それについてどう思う。」
と詰め寄る尾野真千子の迫力たるや凄まじい。
バッグに包丁を忍ばせていた良子は、ここから刃傷沙汰に至るが息子から連絡を受けて飛んできた仕事先の風俗店の店長と同僚によって事なきを得る。
この良子の怒りは弱者の怒りを代弁しているように見えたが、神社で相手の男に言うセリフが「舐められた」であるところには、ここでの弱者の怒りが社会のルールがこうだから仕方がないという圧力に対する怒りではなく、個人としての尊厳を軽んじられたことによる怒りであると感じた。
ここが、前掲のインタビュー記事で監督が描きたいと言っていた「ないがしろにされている個人の感情」の最たるところなのではないかと思う。
値段のテロップについて
ところで、この作品では食費や家賃、その他の出費について時々、値段のテロップが入る。
面白い演出だと思って観ていたが、前掲のインタビュー記事での監督の目論見はこうであった。
この社会で生きている上で、金勘定は誰もが無意識的にしています。コロナ禍では、人生や生活や社会が、ものすごく「平べったい数字」に置き換わっていると思うんです。それこそ、テレビで毎日のように「感染者数」を見ていましたからね。そうしたストレス、もっと言えば世の中に対する認識までもが、数字に置き換わっているような感覚もありました。それをうまく表現できたらいいなと思ったんです。
なるほどねぇ。
この作品が公開された2021年に観ていれば、もっとピンときたかもしれないと思った次第である。
終盤の夕焼けのシーンについて
さて、話はいよいよ終盤である。
息子と二人で、急死した風俗店の同僚の葬式へ行った帰りである。
茜色に染まる夕焼けの中で、河原の土手の道を息子と二人乗りで自転車を漕ぐ良子。
この作品全体を象徴するような場面である。
前掲のインタビュー記事で石井監督は、このシーンについてこう語っている。
良子が感じている怒りとか、愛とか、情念、もしくは美しさが、渾然一体となって炸裂するようなイメージを、茜色に託しました。その茜色があらわれる、ポスターにもなっているシーンが、映像的なイメージの出発点でした。あのシーンを撮るために、この映画を作ったと言っても過言ではないんです。
この場面では、まず息子が「かあちゃん、俺、負けそうだ」と言う。
そして、自転車を漕ぎながら良子はこう言う。
私も。
でもなんでだろ、
ずーっと夜にならない。
まだ、空が真っ赤っか。
タイトルは茜色に「焼かれる」であって、「ずーっと夜にならない」のである。
焼き尽くされるまで焼かれ続けるということであると思う。
社会のルールや圧力に取り込まれて燻っているよりも、なんと潔いことか!
最後の演劇シーンについて
そして、この夕焼けの場面の次がラストシーンである。
中盤のところで、義理の父親が入所している介護施設のレクリエーションのために、良子が一人芝居をやりたいという伏線がある。
コロナ禍なので、収録した映像の上映なのだが、このための撮影場面がエピローグ的なラストシーンである。
この一人芝居のタイトルは「神様」である。
夫はガゼルの人形で、自分は女豹の設定である。
「本当は結ばれるべきではなかった」と言うところから始まり、夫の過去の行状についての恨みつらみが語られ、「愛しちゃったんだよ」と叫び、「神様、それ以上に私に生きる意味を問うのか」と詰め寄る。
ここだけ見ると、なんだかなぁ、という内容なのであるが、思い返してみると、この作品の冒頭は「田中良子は芝居が得意だ」という手書きの文章であった。
そしてストーリーが展開していく中で、現実で演技的に振る舞っているところのどこまでが演技かわからなくなっていく良子の姿が描かれる。
最後の一人芝居では、現実の話が芝居の中に入ってくる。
現実の上に芝居が乗っていたところから、これが逆転して、芝居が現実を乗っ取っているという構図である。
この構図によって、これからより前向きに自分自身に忠実に生きていくであろう良子の姿を描いた、ということであろう。
こういう描き方もあるんだなぁ、と思っていたので前掲のインタビュー記事で石井監督が、
脚本を書いていたときも、編集していた時も、「普通だったらカットするよね」とは思っていました。
と言っているのを読んで驚いた。
しかし「どうしてもやりたかった」と言って、その意図をこう説明している。
このラストシーンには、2つの意図があります。1つ目は、良子というキャラクターを「ただのいい母ちゃん」にはしたくなかったんです。最後は、母親ではなく個としての人生を選ぶわけです。
2つ目は、どんなにダサくてもみっともなくても、自分で決めたことを信じ切る姿を見せたかった。こんなに世の中がぐちゃぐちゃになっちゃってしまったら、こうした方がいいとか、ああした方がいいとかいう、絶対の価値基準は、もはやなくなっていますから。これからは現実の世界でも、「自分の信じた道、自分の人生を信じられるかどうか」が重要になってくると確信しています。
石井監督のインタビュー記事を読んでからもう一度、夕焼けの場面からこのラストシーンまでを見直してみた。
もし夕焼けの場面で終わっていたら、これはこれで綺麗にまとまった感じの終わり方である印象だったが、この作品はこんなに綺麗に終わらなくて良い作品であると思われた。
尾野真千子さんの圧倒的な演技があったから成立し得たようにも感じた。
おわりに
この作品全体としては息子・順平のストーリーと風俗店の同僚・ケイのストーリーもそれなりの分量で描かれていたが、この記事では作品の主旨を中心にコメントする方向で、良子のストーリーを中心に感想を述べた。
こうして記事を書きながら振り返ってみると、石井監督が思うところの「今の時代にしか描けない愛や希望」は描かれていたと思うが、個人的には愛と希望よりも、茜色に焼かれ続ける良子の潔さと愛しちゃんたんだよ叫ぶ良子の人間味の方により強く心を動かされていたと感じた。
また、コロナ禍を振り返りながら、今の社会の現状を再認識することの必要を感じる作品でもあった。
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