ドラマ「ミステリと言う勿れ」/King Gnu「カメレオン」 | 日々是本日

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bookudakoji の本ブログ

 もう3月も25日だというのに、今月のブログ記事がない!

 

「なぁ~にぃ~」

 

ということで、先週最終回を迎えたドラマ「ムチャブリ!わたしが社長になるなんて」の続報記事を書こうかと思ったのであるが、その前にフジテレビの音楽番組「Love music」の King Gnu さんの回を観てしまった。

 

 実は、フジテレビのドラマ「ミステリと言う勿れ」も観てはいたので、主題歌「カメレオン」を歌っている King Gnu さんがちょっと気になっていたのである。

 

▼ドラマ「ミステリと言う勿れ」公式サイト

※最終回は3月28日(月)21時から放送

 

 この作品は、菅田将暉さん演じるマイペースな性格の大学生・久能整(くのう ととのう)が、犯罪事件に巻き込まれながらも観察眼と洞察力で事件の謎を解いていくという、ちょっと変わった犯罪ミステリードラマである。

 

 TVドラマにはドラマとして映像化された面白さを感じたが、話としては原作の漫画の方が深味があるのではないかという印象であった。

 

 原作は田村由美さんの同名漫画、ドラマの詳細は公式サイトを参照されたい。

 

 

 King Gnu さんの主題歌「カメレオン」は、ドラマで流れる度に独特だけど雰囲気のいい曲だなぁと思っていたので、いずれ詩を鑑賞しようと思っていたのである。

 

 

 以下、詩の感想であるが歌詞そのものを掲載することはできないので、歌詞については下記のインターネットサイトなどを参照されたい。

 

※楽曲を担当した常田さんのコメント紹介あり

 

 この曲の詩は、「君は誰?」という難しいミステリーを解き明かしたいという思いの提示から始まる。

 

 これは、犯罪ミステリードラマのメインテーマである、「この事件の背後にいる君は誰?」という問いに通じるものである。

 

 しかし、詩の中の「君」は今はもう僕が知らない変わってしまった昔の恋人である。

 

 厳密には、恋人とは書かれていないが全体の内容からそう読んだ。

 

 このミステリードラマにおける「君は誰?」という問いを、今は変わってしまった昔の恋人に重ねたところにこの詩の凄さを感じた。

 

 この「僕が知らない君」は、「スマートフォンの画面に映っている今はもう僕が知らない君」として表現される。


 この「僕の知らない君」の笑顔につられて笑う僕は、悲しい僕であると思う。

 

 一つには駅のホームの描写で君のいない寂しさが表現されており、もう一つには僕は幸せで君も幸せそうに見えるなら、つられて笑う必要はないからだ。
 

 だからこの悲しい僕は、もう君がいない悲しみに彩られた僕だ。
 

 その後に「幾度も塗りつぶす」という意味のサビの部分が続く。

 

 そして、「僕の記憶の中の君」と「僕が知らない今の君」はどちらも真実であるという人間観が提示される。
 

 だからこのサビの部分は、「僕の記憶の中の君」を塗りつぶす君のプロセスであると読んだ。

 

 この後でもう一度、「幾度も塗りつぶす」プロセスのサビの部分が現れるが、続く部分の内容は変わっていて、ここではそのプロセスは君が君にお似合いの色に塗るプロセスである。

 

 であるから、最初のサビの部分は「僕の記憶の中の君」の否定であって、後のサビの部分は「僕が知らない今の君」を受け入れていく過程である。

 

 そしてこの「僕が知らない今の君」を象徴するのは「悲しい夕暮れ」である。

 

 この夕暮れは、僕に悲しさをもたらすけれども、その輝きで感情を揺さぶる夕暮れであると思う。

 

 この部分を含む出だしのセクションがもう一度繰り返されて、詩は終わる。

 

 MVを観ながらもう一度詩を辿ると、「僕が知らない今の君は誰?」という最後に、夕陽が沈んだ後の余韻が重なる曲であった。

 

 さて、いよいよここまで敢えて触れなかった部分に踏み込んでいきたい。

 

 それは、「幾度も塗りつぶす」という意味のサビの後のセクションである。

 

 このサビのセクションは二か所あるので、その後のセクションも二か所ある。

 

 最初のセクションは、汚れてしまった悲しみも塗り重ねていけるよという希望的な内容であると読んだ。

 

 後のセクションは、今の僕の「伝えたい想い」が表現されている部分である。

 今の君に伝えたい想いは、「今の君に似合う色は、君らしければ何色でもかまわない」という今の君を肯定する気持ちであるのに、それを伝えるのは強がりに聞こえるだろうと言っていると読んだ。

 

 当時は、君らしさを肯定することができなかったのだろうと推測される。

 

 これが、失恋を彩る悲しみの中に含まれている未練であると思う。


 そして、「僕が隣にいないのだとしても」と言ってこのセクションは終わる。

 

 これは倒置法的な書き方ではなくて、この後に続く部分の省略であると思う。

 

 具体的には想定するならば、第一候補は「君は君に似合う色に変わっていくよね」という内容である。

 

 「僕が知らない今の君は誰?」というミステリーを君のミステリーと言うならば、この意図的に省略されたであろう「今の僕の想い」は、この詩を作った常田さんによって仕込まれた僕のミステリーと言えるだろう。

 

 だから、「僕が知らない今の君は誰?」という君のミステリーの答えは「自分らしくある君」であり、僕のミステリーの答えは「僕が隣にいないのだとしても、君は君らしく変わっていくよね」ということであると読んだ。

 

 ここで敢えて、意図的に省略された部分を僕のミステリーとまで言って強調したのは、最後にこの詩全体の問いかけを考える上で重要な意味があるという考えからである。

 

 というのも、この詩全体は「君」という謎を解く「僕」の物語であって、その意味では物語の重心は「僕」の側にある。

 

 そしてこの「僕」の物語は核心は失恋を悲しむというよりも、人は変わっていくという普遍的事実を受け入れているところにある。

 

 それ故、「難解であるミステリー」としてこの詩全体が問いかけているのもまた、変わっていく人間を理解していくことの難しさという普遍的事実であると解釈したい。


 つまり、人間理解がミステリーだと言っているのである。

 

 そして失恋の歌にして、この人間理解についてのミステリーを、心揺さぶる夕暮れに例えた熱さがある。

 

 このこと意味は、人間理解についての情熱であり、それは解かれ続けなくてはならないミステリーであるということであると思う。

 

 そしてこの、変わっていく人間の理解のプロセスにおいては、

 

 「僕が知らない今の君は誰?」と問えるだけでなく、

 

 「僕が知っている今の君は誰?」と問うこともできるのであり、

 

 「僕が知っている今の僕は誰?」とすら問うことができるのである。

 

 それは、人間理解という観点では自分自身もまた難解なミステリーだからだ。

 人間という謎は熱く解かれ続ける。