1月の終わりに、東京事変「仏だけ徒歩」の記事を書いた。
その3日後に東京事変「仏だけ徒歩」補遺を書いた。
さぁーせん! と先に謝ってしまいます。
今回は更に「補遺のその後」の記事になります。
どうしてかというと、PVを観ていたら「自作自演」の部分で映像では「THE END」とタイプしているのがわかったように、補遺の記事を書いた後もPVを観ていたら、映像をベースとした取りまとめが必要であるように思われたからなのである。
尚、正しくはPVではなくMVと言うそうなので、以下、MVに改める。
※公式サイトはこちら(https://tokyojihen.com/disco/single/)
※歌詞を掲載できないので、実際の歌詞については下記の公式サイトを参照
公式サイトの歌詞ページだと、17行の構成である。
1行目で「涅槃へ行きたい」という主題が提示されて、最後の17行目は「もう涅槃(ニルヴァーナ)?」という結びである。
間の15行は、5行ずつの3部構成なので、これを第1部、第2部、第3部ということにする。
本題に入る前の枕として、「永平寺」と「深大寺」問題のその後について書いておきたい。
■その後の「永平寺」と「深大寺」問題
「好きな永平寺」と「アクセスの深大寺」について、氷河期世代の詩としての解釈は下記の通りであった。
好きなお寺の代名詞として有名な「永平寺」を、東京で実際に行くお寺の代名詞として「深大寺」を選んだということではないだろうか。
これはつまり、あこがれはあるけれども手近なところで満足するという氷河期世代の心情を表現しているのではないかということである。
そして、前の部分の「ほらもうすぐよ」という部分との関係を考慮すると涅槃のイメージが重ねられていると思われるので、曹洞宗の総本山である「永平寺」が選ばれたのではないかと補った。
「永平寺」はそのイメージに沿うように山奥にある。
補遺の記事で総本山の紹介サイトとしてリンクを張った下記のページが、仏教系のサイトではなく、山とカメラが趣味の人のサイトであるのは偶然ではない。
さて、「永平寺」の話はこれくらいにしたいと思う。
その後に思ったのは「アクセスなら深大寺」の方なのだ。
「好きなものばかりを食べていては病になる」という話を聞いて、「アクセスなら深大寺」を思い出したのである。
選べる自由がいつも我々に味方するとは限らないのである。
いくら永平寺が好きだといっても永平寺は遠いのである。
山奥にあるのである。
深大寺は天台宗だけれども、こだわり過ぎず参っておくような在り方でいいんじゃないだろうかということである。
(宗派を無視してよいという主旨ではないです。こだわりすぎない心の在り方という話です。念のため。)
実際の詩は、好きなのは永平寺だけれども実際に行くのは深大寺であると読んでおり、補遺の記事に書いた通りこれは「好きなのは叙々苑だけど、よく行くのは牛角」的な読み方である。
焼肉の例えであれば、叙々苑に行くお金が貯まるまで焼肉屋に行かないというのはあまり現実的ではないから牛角に行く、というのは納得感がある。
これを「日々祈っている」信心の準備という観点で、人生はいつ何があるかわからないのだから、永平寺に行くという目標達成にこだわらず、深大寺に参って信心を積んでおくことだと考えてみる。
こう考えてみたのは、「目標が決まってからお金を貯める」という話を聞いたからである。
これは目標が決まっている方が何を準備すれば良いか明確であるしモチベーションも上がるという点では良いのだが、せっかちな自分には向いていないと思った。
日々、「アクセスなら深大寺」と思って、いざという時にすぐ旅立てるよう準備しておきたい。
枕が長くなったので本題に入ろう。(汗)
■MVで【気になった場面】
まずMVの流れに沿って、【気になった場面】を挙げいく。
【場面1】
高そうな車が止めてある、おしゃれなプール付きの家の映像で始まる。
屋内の照明は明るい。
豪華すぎる。
この意味はなんだろうか?
【場面2】
屋内で演奏が始まる。
冒頭の歌詞の「涅槃へ達したい」というあたりで、テレビとスピーカーを積み上げたタワーが映る。
終盤の展開を考えるとこのタイミングは偶然ではないだろう。
【場面3】
部屋の一角にある一台のテレビに、砂嵐が映し出される映像が挟まる。
最後に「涅槃か」というシーンが映し出されるテレビである。
砂嵐が映し出される前の部分を見直すと、ドラムの後ろに配置されているテレビであることがわかる。
【場面4】
第2部の中ほどで、冒頭の家の映像が挟まる。
屋内の照明は明るいままである。
雷が鳴り、稲光が映される。
【場面5】
第3部の中ほど、「幻よ」の下りで浴室のバスタブに人が沈んでいる映像が突然に挟まる。
サングラスはしていない。
その後、「THE END」とタイプした直後に、映像は再び浴室のバスタブに切り替わり沈んでいた人が目を覚ます。
キーボードの伊澤さんだろうか。
驚いて溺れている短い映像が挟まる。
【場面6】
この後で、林檎さんが「開いて」と歌い始めるところでは手に印を結んでいる。
そして「何者でもない」というところで、バスタブで溺れていた人がバスタブに沈んでいく。
小さな泡が出ているので、死んでいるのではないようだ。
【場面7】
手に印を結んで歌う林檎さんはテレビとスピーカーを積み上げたタワーの前に移り、その後でタワーが開く。
すると演奏ステージが表れて、中央に林檎さんが横たわっている。
これは涅槃図(お釈迦さまが入滅された時の情景を描いた図)のイメージだろう。
中央に掲げられているのは蓮の花か。
【場面8】
ドラマーの映像に移った後、林檎さんが歌い出すのは「悟って…」からである。
全員の衣装は黒に統一されている。
サングラスのフレームもカラフルなものではない。
【場面9】
最後の「涅槃か!」のところで映像は、【場面3】の砂嵐が映し出された部屋の一角にある一台のテレビに戻り、そこに林檎さんとベースの亀田さんが加わった涅槃図の映像が映し出されて曲は終わり、テレビは再び砂嵐になる。
【場面10】
テレビが再び砂嵐になった後、【場面1】の家の映像に戻り、家の明かりは消えていく。
■MVの解釈
それでは、【気になった場面】を中心に解釈を書いてみたいと思う。
まず【場面1】の、高そうな車が止めてあるおしゃれなプール付きの家、屋内の照明は明るい。
煩悩の象徴であり、屋内の照明が明るいのは煩悩の火に見える。
第2部の中ほど、「現世の毒気を葬る」下りで【場面4】の雷が鳴り、稲光が映される映像が挟まるから、煩悩を打ち滅ぼすイメージだと解釈した。
そして第3部の中ほどの【場面5】、「幻よ」の下りで浴室のバスタブに人が沈んでいる映像の突然さに驚く。
MVを観ているうちに思い出されたのは、ブッダ「神々との対話」(中村元 訳、岩波文庫1986)の中の言葉(第一章・第一節の三)である。
わたしは立ち止まるときに沈み、あがくときに溺れるのです。わたしは、このように立ち止まることなしに、あがくことなしに激流を渡ったのです。
※ブッダ「神々との対話」(中村元 訳、岩波文庫1986)p14 より引用
ここでの激流とは中村元さんの注(前掲書、p224)によると「迷いの生活、迷いの世界」のことである。
【場面5】ではこの後で、「THE END」とタイプした直後に、映像は再び浴室のバスタブに切り替わり沈んでいた人が目を覚ます。
このタイミングで心の目覚めを表現する映像を挟みたいと思ったとしても、これを敢えてバスタブに沈んでいた人が目を覚ます映像としたのには理由があるとしか思われない。
よって、この理由としてブッダが激流を渡る過程をこのように表現していることに由来するという可能性を挙げておきたい。
そして、バスタブで目覚めた人は溺れた後で再び沈んでいく(死んではいない)。
映像は【場面7】に進み、歌う林檎さんは手に印を結んでいる。
そしてテレビとスピーカーを積み上げたタワーが開く。
現れるのは、林檎さんが涅槃図で横たわっているステージであるから、悟りの門が開いたということだろう。
歌もそこから「悟って…」と続いていく。
中央に蓮の花が掲げられていることからしても、このステージは涅槃の世界のイメージだろう。
そして、【場面9】である。
まず、ベースの亀田さんが加わった意味であるが、深読みすれば釈迦に続いて弟子が悟っていくよということの表現か……、最後に亀田さんが出たがったからというようなオチではないですよね?
いずれにせよ、映像は【場面3】のテレビに砂嵐が映っているところに戻る。
これは、屋内での演奏と涅槃の世界のイメージのステージは全て、実は全て【場面3】のテレビに映っていた内容でしたというようにも解釈できる。
そして更に、この後の【場面10】では【場面1】の家の映像に戻って明かりが消えていく。
煩悩の火は消えたのだ。
涅槃には「煩悩の火が消える」という意味があることからすればもっともであるし、これまでの解釈とも整合する。
まとめると、最初に煩悩の世界が提示され、【場面3】のテレビに砂嵐が映っているところから悟りに至るプロセスが始まり、煩悩の世界は稲妻に打たれて、【場面9】でテレビが再び砂嵐になるまでが悟りに至るプロセスであり、煩悩の火が消えて終わる。
こういう流れであったことになる。
■おわりに
なんと凝った作りだろうか!
とはまぁ、このMVを観た人の大半が思っていることだろう。(笑)
最後に触れておきたいのは、映像では悟りの世界までが描かれているが、この曲が基本的には氷河期世代を歌っているということからすれば、やはり「悟った!」ということではなく「これが悟りだ!」ということでもなく、(ベースの亀田さんが林檎さんの後ろに横たわったように?)ブッダの道を歩いて激流を渡れと言っているように思うということである。
よってこの記事は、補遺の記事の下記を再掲して終わる。
目を閉じて静寂が訪れるようになれば、それは悟りの入り口であり、現世にあっても苦楽に振り回されなくなるから涅槃にいるようなものだ。