保立さんの「現代語訳 老子」を少しずつ読んでいる。
※本の概略についてはこちらを参照
■第3部 王と平和と世直しと
第一課 王権を補佐する
ようやく第3部までやってきた。
ここからは王と社会の話である。
無為を悟った賢人である王が社会と民衆に奉仕するという老子の思想は、現代では絵空事のようにすら思われるが、保立さんは秦漢帝国の形成期の政治には大きな影響力を持っていたという。そしてこの流れを、漢帝国において儒教が塗り替えていったのであるという。
まず取り上げられるのは原典16章である。
【現代語訳】
心を空虚にして、その極点で静寂を守ってじっとしていると、万物の気が一挙に動き出して本源に復(かえ)って行き、私の心も本源に復って行く。物が盛んになると根に戻っていくのである。根源に復帰すればすべては「静」であり、そのなかで「命」が復活する。そして「命」に戻れば、そこは永遠の今、「恒」である。その永遠の道を知ることが「明」である。それを知ることができなければ、自分の凶暴さを鎮めることはできない。私たちが「恒」を知るのは「容(広大な世界)に目を開いて寛容になるときである。世界が無限に広く「容」であるからこそ公を共にすることができるのであり、公共とは個々人がみな独立の王となることである。人は王となって天を仰ぐが、天には「道」があり、すべては永遠の今だ。その中に身を処するまで何をしても、だいじょうぶだ。
【書き下し文】
虚を致すこと極まり、静を守ること篤くす。万物は並び作(おこ)れども、吾れは以て復(かえ)るを観る。夫れ物の芸芸(うんうん)たるも、各(おの)おの其の根に帰す。根に帰ればここに静にして、是れを命に復ると謂う。命に復るを恒といい、恒を知るを明という。恒を知らざれば、妄作(もうさく)して凶なり。恒を知れば容(よう)なり。容なれば乃(すなわ)ち公なり。公なれば乃ち王たり。王なれば乃ち天なり、天なれば乃ち道なり、道なれば乃ち久し。身を没するまで殆(あや)うからず。
※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p304-305
長い章であるが全文を引用した。
前半部分は一言で言えば、道に従わなければ「妄作して凶なり」ということである。
保立さんは後半の「容なれば乃(すなわ)ち公なり。」という部分について、従来の「寛容だから公平だ」という解釈に対して、宇宙論的な広がりを込めて「世界が無限に広く「容」であるからこそ公を共にすることができる」訳したと言っている。
そしてこの後の「王」とは既にみた原典25章に「人はみな王である」とある通り、人間界の代表としての意味であるという。
個人的にはこの部分の「容」は、「公」に対する「私」の否定を想定して読んだ。
つまり、「恒を知れば容(よう)なり」を、「恒を知れば私利私欲から脱する」と読んだ。
そして、私利私欲から脱した人間は、人間界の代表である「王」であり、「王」が「天」に従えば「道」である。
「道」なれば、「身を没するまで殆(あや)うからず。」である。
さて、このような王の在り方はどういうものかと言えば「無為」ということである。
取り上げられるのは原典13章である。
【現代語訳】
すべての基礎にある自分の身を無為に為(おさ)めることを、世の中を為めることより貴ぶ人間であって初めて世の中を託すことができる。まずはその身を無為に保てるのが大事であって、それが世の中を為めることより、人間として大事だと思える人にこそ、世の中を委ねることができるのだ。
【書き下し文】
身を為(おさ)むを天下を為むより貴ぶあらば、天下を託すべきが若し。身を以てするを天下を為むより愛するあらば、以て天下を寄(よ)すべきが若し。
※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p309-310
保立さんは、ここでの「為(おさ)める」は「自分の身を修養する」と理解するのがよく、老子の賢人政治の理想を述べたものであるとしている。
個人的にはやはりここにも、私利私欲を乗り越えることが含まれているように思う。
つまり、「自分の身を無為に為(おさ)める」という修養には私利私欲を捨てるということが含まれていおり、私利私欲を持ったまま「世の中を治めたい」という人間は信用ならんということである。
この後の部分は、書き下し文は前半の「身を為める人に天下を託すべし」と同じ形式で、「身を愛するものに天下を寄せるべし」となっている。
「身を為める人に託す」のと「身を愛する人に寄せる」の違いをどう読むべきか。
個人的には、既にみた原典67章の積極的に先頭に立とうとはしない保守的な姿勢を考慮して、前半は天下を治めるべき人について述べており、後半は周囲の人々が天下を治める人としてどういう人を推すべきかを述べていると読んだ。
つまり、天下を治められるのは自分自身を修養して私利私欲を捨てた人であるが、こういう人は自ら進んで先頭に立とうとはしないものであるから、「世の中を治めたい」という人よりも自分自身の修養に努めている人を推挙するべきということである。
このように読んだ場合、「身を為める人」を直接見極めるのは難しいから、「身を為める人」を見出したければ「身を愛している人」を探すべし、という意図が更に含まれていることになる。
そして話は「無為」という在り方に進んでいくので、次の記事とする。
▼保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018
【目次】
序 老子と『老子』について
第1部 「運・鈍・根」で生きる第一課 じょうぶな頭とかしこい体になるために
第二課 「善」と「信」の哲学
第三課 女と男が身体を知り、身体を守る
第四課 老年と人生の諦観
第2部 星空と神話と「士」の実践哲学第一課 宇宙の生成と「道」
第二課 女神と鬼神の神話、その行方
第三課 「士」の矜持と道と徳の哲学
第四課 「士」と民衆、その周辺
第3部 王と平和と世直しと第一課 王権を補佐する
第二課 「世直し」の思想
第三課 平和主義と「やむを得ざる」戦争
第四課 帝国と連邦制の理想