保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018/第2部・第四課 「士」と民衆、その周辺(3) | 日々是本日

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bookudakoji の本ブログ

 保立さんの「現代語訳 老子」を少しずつ読んでいる。

 

※本の概略についてはこちらを参照

 

■第2部 星空と神話と「士」の実践哲学

   第四課 「士」と民衆、その周辺

 

 いよいよ第2部の最後である。

 

 「善」と「不善」の話に進む。


 取り上げられるのは原典27章である。

【現代語訳】

車を操縦する善は轍(わだち)の跡を残さないこと、言葉の善は自他を瑕(きず)つけないこと、計算の善は算木(さんぎ)を使わないこと、戸締まりの善は貫木(かんぬき)や錠なしに戸を開けられないようにすること、また荷物を結ぶときの善は縄に結目がないのに解けないようにできることである。有道の士の恒なる「善」は、人を救い、人を棄てることがなく、万物を救って棄てることがない。これを「明知」の世界に入るという。たとえば師弟関係の善は救うためにある。善人が師であるとすれば、不善人が弟子であっても、その関係は切っても切れない。この関係で、弟子が師を貴(とうと)ばず、師が弟子を棄てて愛さないような人間であれば、師弟が「明知」を求めるのはただ迷誤(めいご)だ。この微妙な点を洞察しなければならない。

【書き下し文】
行くことの善は轍迹(てつせき)なく、言うことの善は瑕讁(かたく)なく、数うることの善は籌策(ちゅうさく)を用いず、閉ざすことの善は関楗(かんけん)なくして、而も開くべからず、結ぶことの善は縄約(じょうやく)なくして、而も解くべからず。是を以て聖人の恒なる善は、人を救い、人を棄つること無し。恒なる善は、物を救い、物を棄つること無し。是れを明に襲(はい)ると謂う。故に善人は不善人の師、不善人は善人の資(し)なり。其の師を貴ばず、其の資を愛せざれば、智ありと雖(いえど)も大いに迷わん。是を要眇(ようみょう)と謂う。

 

※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p288

 長い章であるが全文を引用した。

 

 既に触れた原典2章の、「善を善と知るのは、実は不善があるからである。」という言葉が思い出される。

 

 それ故に、「善人は不善人の師、不善人は善人の資」でもあるのである。

 

 この例えとして、前半で挙げられる幾つもの例示は実に深い。

 

 善のために不善をなくさなければならないという二項対立を完膚なきまでに否定している。

 

 例えば戸締まりの善であれば、善の為に錠を以て開けようとする不善を排除するのではなく、「開けないという善」と「開けるという不善」がただあるだけだという形で、老子の中では止揚されていたのではないかと思う。

 

 「不善」によって「善」が定まり、この「善」は「不善」を排除しようとするものではなく、直接求めるべきものであり、「不善」によって「善」が定まることによって、具体的に直接求めることがてぎるようになるのである。

 

 であるから、「不善は善の資」なのである。

 

 保立さんはこの章について、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という思想との共通性を指摘している。

 

 そして、中国の浄土教に老子の影響があり、その流れを受けた親鸞も若いころに既に老子を読んでいたであろうと言っている。

 

 さて、いよいよ第2部の最後である。

 

 原典62章である。

 

 ここも少々長いが全文を引用する。

【現代語訳】

「道」は万物の奥に存在するのであり、それは善人の宝であるが、実は不善人が支え保(も)ってくれている。地位と名誉を手に入れるために、言葉を美しく飾る人も、ともかく美しい言葉にふさわしい行為を人に施すことになる。だからそういう不善も役に立たない訳ではないのだ。そもそも天子の即位や三公の任命のときに、玉璧の宝を先に立てた四頭だての馬車を美々しく前駆させることは最大の虚飾であるが、そのときでも私たちは、そう考えてそれぞれの「道」を進み続ければよいのだ。古くいうように、この「道」が貴ばれているのは何故か。それはこの「道」によって求めれば与えられ、罪があっても許されるからだ。だから、この世界で貴重だとされているのだ。

【書き下し文】
道は万物の奥にあり、善人の宝にして、不善人の保(たも)つ所なり。美言の以って尊を市(か)うべくんば、美行は以って人に加うべし。人の不善なる、何の棄つることか之れ有らん。故に、天子を立て、三公を置くに、璧を拱(かか)えて駟馬(しば)に先だたしむること有りと雖(いえど)も、此れを進むに坐すに如かず。古の此れ貴ぶ所以の者は何ぞや。求めて以て得られ、罪有るも以て免ると曰わずや。故に天下の貴ぶものたり。

 

※保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書p294-295

 「善」と「不善」という二項対立の否定から、「善」と「不善」の相補性へと話は進む。

 

 具体的に現れ出る善にも悪にも捉われず、「道」を求めていけばいいのだ。

 

 そこでは、具体的に現れ出た罪は問題ではないのだ。

 

 なんと心強いことだろうか。

 

 保立さんは「求めよさらば与えられん」というキリスト教思想との類似性や、中国の太平天国の大運動への影響などらついて論じているが、専門的にすぎるので関心のある方は本書を参照されたい。

 

 以上で、第2部を終わる。

 

 

▼保立道久「現代語訳 老子」ちくま新書2018

 

現代語訳 老子 (ちくま新書)

 

【目次】
序 老子と『老子』について
第1部 「運・鈍・根」で生きる

 第一課 じょうぶな頭とかしこい体になるために
 第二課 「善」と「信」の哲学
 第三課 女と男が身体を知り、身体を守る
 第四課 老年と人生の諦観
第2部 星空と神話と「士」の実践哲学

 第一課 宇宙の生成と「道」
 第二課 女神と鬼神の神話、その行方
 第三課 「士」の矜持と道と徳の哲学
 第四課 「士」と民衆、その周辺
第3部 王と平和と世直しと

 第一課 王権を補佐する
 第二課 「世直し」の思想
 第三課 平和主義と「やむを得ざる」戦争
 第四課 帝国と連邦制の理想