おそらく日本には「社長」と呼ばれる人達が100万人ほどいるようです。自分で独立起業した人、サラリーマンから出世して成り上がった人、親から引き継いだ人。いろいろあるでしょう。僕の場合は、2007年に約15年間くらい働き続けたサラリーマンを辞めて、独立起業して社長になりました。
僕はよく会う人会う人達に「起業しろよ」「だったら自分でやったらええやん」と声を掛ける癖があるんですが、そんな時にたまに聞かれるのが「大井さんは起業一家(一族)なんですか?」みたいな質問。ようするに世間一般の公務員やサラリーマン家庭とは違った「一風変わった家庭環境」だからそんな事を言うんですか?みたいな質問。
で、参考になるかどうかは別として、僕(経営者)のオヤジ&育った家庭環境の話。
オヤジの職業は「織物業」です。お爺ちゃんは農家で4人兄弟の長男だったオヤジは高校を出て、当時周辺の町で流行だった織物業を始めたみたい。家の前に小さな工場作って1台当時の価値で数千万?クラスの織機(しょっき)を3台稼動させてたみたい。僕が小学校低学年くらいまでは、従業員も数名雇ってたし、オヤジはパンチパーマに高価な腕時計みたいな格好で、パチンコ・麻雀大好きの田舎のぷち成金ギャンブラーってイメージでした。
そして僕が小学校3年、4年、5年、6年と上がるにつれ、従業員が減り、お年玉も減り、こづかいも減り、中学生になる頃には「なんや、うちって貧乏なんや」と認識するようになりました(笑)特にお年玉なんかはもらったら裏でスグにオカンに渡して、それをオカンが相手の子供に渡すのがだんだん暗黙の了解になってきて、一度「ちょっと買いたい物がある」と言って出し惜しみするとオカンが「こっちは2人やけど、あっちは3人おるんやで!(怒)」「うん、わかった」みたいなのもありました。(笑)
そして中学生になった時は、従業員は中卒のバリバリヤンキー(紫パーマ)のお兄さん(実はめっちゃいい人)1人だけで、工場は坊主頭になったオヤジとオカンとおばあちゃん(寝たきりおじいちゃん除く)家族総出で機織を動かす運営となりました。当然、1つ上の兄貴と僕も強制手伝いを頻繁に頼まれたり。「テレビ観てから手伝う」「今すぐ来い」「イヤじゃ」「はよ来いコラ」とか親子喧嘩したりしてました。
ちなみにこの頃のオヤジの口癖は、「お前は大きなったら学校の先生になれ」でした。今から思うと、公務員にならんと大変やぞ、ってことでしょうね。おかんのお兄さん一家が先生一家だったのも影響していたのかも知れません。でも当時の僕は「オレの人生はオレが決めるから放っておいてくれ」と思ってあんまりまともに話を聞いてませんでした。
そして、家が貧乏でこづかいが無い、でも欲しい物があるって中学2年の時に初めてバイトを始めました。単純ですが「欲しいものは自分で働いて稼ぐから」ってのと、周りの友人らも織物業をやってる家庭が多かったので、だいたい家の状況はどこもいっしょで、みんな金が無かったから。(←この周りの友人も皆同じ環境ってのが、今から思うとスゴイ救いやったと思います。)
初めてのバイトは新聞配達。確か早朝5時~6時くらいに約150件くらい毎日配って月に15,000円くらいだったと思います。(時給500円くらい?)中学生が月に15,000円稼ぐのは結構な稼ぎなんですが、使い道はテレビやビデオを買ったりファミコンやCDコンポを買ったりしていましたね。お金持ちの友人らは両親に買ってもらえるのを自分達は自分達で一生懸命揃える感じでした。
中学・高校とバイトは色々やりました。春休み、夏休み、冬休みはとにかくバイト一色でしたね。うどん屋さん、ガソリンスタンド、土建屋、テキ屋、缶詰工場、アパレル系工場、みかん狩り、農協、トラック運搬助手、短期も含めたら15種類ほど経験しました。
まあ、どれも長続きしないのは「すぐ飽きる」性格からですね。最初の1週間くらいはめっちゃ仕事を覚えるのが楽しいんですが、一通り覚えると「ああ、後はこれを毎日やるだけか」って思うとしんどくなってダメになるパターンが多かったです。一応約束の期日までは働くんですが、その時には「次はなんの仕事しようかなー」ってもう考えているんですね。(笑)
うーーーん。
思った以上に長くなったんで、今日はこのへんで。