献食菜集 -175ページ目

読書感想文

mayumi

茂木健一郎著「意識とは何か」を読んで以下の感想をもちました。

1)素描の授業

複数の人間が 同じモチーフ(対象)を囲み、そのモチーフを素描する。
美術を学ぶ人達にとっては、ごく普通の授業の方法です。
素描された作品を一同にながめると、同じモチーフを素描したにもかかわらず
描き手の人数分の結果があらわれ大変に興味深いものです。

「素描」は「モチーフを見たままに描く」という方法です。
たとえば「りんご」をモチーフにして素描する 。
モチーフをよく観察しながら、コンテ、木炭、鉛筆などの「黒」を使った単一色で、
極端なデフォルメを避けて紙の上に描きます。
いわゆる「赤い色」も「黒色」で表現します。
形態、質感を単一色の階調、タッチ(筆跡)を駆使して決められた時間内に描きます。
時間が来ると、全員の作品を一ケ所に集め、全員でそれらをみながら講評します。

「見たままを描く」という事は、視覚によって得た情報を脳におくり、脳がそれを認識し、
一旦脳で処理されたモチーフの情報を画用紙上に描いて表わしている事になります。
また、そこでは3次元のモチーフを2次元の画面に描いているのですから、モチーフのもつすべての情報は 最終的には、「モチーフを見た感じ」に変換させられています。
「上手な絵だな」「よく描けているな」「ほんものそっくりだな」「うまい。」と好評される絵は
その変換のしかたが優れているのです。

変換の方法には、遠近法、単一色による濃淡、筆跡があります。
変換時には モチーフを観察して得られた「情報」が「今、自分自身が描いている絵」に適格に変換されているかどうかが吟味されながら、修正や描き足しをされていきます。
吟味される内容には誰が見ても明らかな、色、形態、といったモチーフが本来もつもの。
そして重要なのが、モチーフが本来もつものと、観察者がモチーフにもつイメージ、記憶などが
醸し出している「感じ」、つまりクオリアなのです。
絵とはクオリアの抽出なのです。

描くひとがモチーフを観察している時、
極端にいえば、その人は見たいものしか見ていない、見ようとするものしか見ていません。
知らないうちに、モチーフが本来もつ情報を自分勝手に整理しているのです。
それがデフォルメの内容であり、その根拠はクオリアです。

さきほど「極端なデフォルメは避けて…」と書きましたが、クオリアを表現する事は、実はデフォルメでもあるのですが、絵のヴァリエーションはデフォルメのヴァリエーションでもあり、それをどんどん自由に展開することが現代絵画の変遷史でもあるほどです。
優れた素描とはクオリアの表現を自覚しているものであり、またそのようにして出来た作品は見る者にも、
そのクオリアを感じさせます。

素描ではありませんがアルブレヒト・デューラーの描いた写実的な果物は香りが伝わるようです。
オーギュスト・ロダンが大理石で作った女性の頭部作品は頬を押せばへこみそうです。
と写実的な作品はクオリアが伝わりやすく、また充分に伝わって来ないこともわかりやすいので
授業には使われるのです。

2)私の作品とクオリア

絵画作品の制作にあたって、何を描くかはまさに多種多様です。
中には絵画作品だけで完結を意図的に避け、作者の言葉の説明がまず
前提としてあり、その理論とあいまってはじめて完成するという、
見れば解る作品ばかりではなくなっています。

私の作品「混色採集」シリーズは写実的な作品ではありません。
しかし理論とセットでもありません。

色彩と形態だけを使い、見る人にとって初めての「キレイな現象」を
見せようというのです。
それぞれのひとはそれぞれの色彩に何らかのクオリアをもっています。
でもそれは何か具体的なモノと結びついてそのクオリアとなっている事が多いのでは
ないでしょうか。

たとえば、赤い血、木の緑、空の青、海の紺碧、などです。
つまり写実的な作品をはじめ具体物を描く絵画は、見る人と描く人の間に
約束が交わされています。
これはりんごです、山です、木です、人です、顔です、というふうに。

その時色彩は見る人の色から感じるクオリアの範囲を限定します。
その物体の属性のひとつとしての扱いです。
つまり純粋な色彩から何かを感じているのではない、ということです。

人間にとっての赤や黄色の花は、 昆虫の眼にも同じ様に見えているわけではない。
昆虫には無彩色で出来たパターンの繰り返しであると聞いた時には、人間は全く、色を自由に見ていないのだとおどろきました。
その点では私の作品を観る事は、色、形態についてのクオリア生成の瞬間に立ち合う事だと思います。

susuki



















反すう鈍牛

asakawa

今までいったい何をして来たのかと改めて思う
あまりにも何も知らないからである

今のところ何の役にもたたない者だが
思い直して研鑽に励むしか残された道はない

丑年の牡牛座 うまれの鈍牛であるから
反芻ばかりしている、
バカみたいである。

はやくあたりまえに役にたつ者になりたい。

hirayama
















日本はカモか

下記のサイトを見た事がありますか
おもしろいです。

http://biz.yahoo.co.jp/column/company/ead/celebrated/person5/column_person5.html

日本は黒船以来現在もアメリカの思うがままに
あしらわれている
ということがわかります。

北朝鮮の核実験も株価の操作のためだったとは驚き。
韓国、中国、ロシアが一斉に地震波観測の発表したのは
たしかに出来過ぎかもしれないですね。

本当は北朝鮮で何が起こっているか知らないのは
日本だけ、とはおそろしい。

知らされない歴史が確実に進行中なのか。














過去

避雷針のペンキの厚みしかない歴史だが
人びとは未来へ自分達の時代の記録を残そうとする。
その時代の権力者を美化したり自民族を美化したり
その為には更に過去を改ざんしたりもする。

歴史というのは残そうというものを残す意志の集積であり
極めて客観的な史実の記録は不可能なのであろう

kagami

「死海文書の謎」では同じユダヤ教内のさまざまな派が
我が派こそが「1000年王国」の後継者たらんとして
細かな計算によって過去の出来事を時間的に前後させるのに
一生懸命である。

別に歴史上の大人物でなくとも自分史を振りかえれば
あの時あの事があったから今の自分があるとか
あそこに行ったから今の配偶者と結婚したのだとか。
ドラマチックな自分史が出来てしまわないだろうか。

ましてや、それが自分達の王であったり、民族史であればなおさら。
壮大な歴史ができあがる。

ほんの60数年前のこともわからない
何故日本は開戦したのか。
中国大陸で起こった大量殺戮の真偽。
アメリカが原爆を落としたほんとうの理由は何か。
日本を悪にしたいが為の極東軍事裁判。
流れが分たれたまま、今にいたる。
過去の出来事のありようが現在の自分を左右する。
また今の権力が過去を変える。
または今の自分のありようが過去の読みとれなくする。

つい1年前のことでさえ真実を
扮飾させている。
耐震強度偽装事件。
あれは「耐震強度偽装隠蔽」事件だと
藤田東吾氏が訴えている。
事件の背後に闇がみえる。

網野喜彦氏によれば12世紀頃
百姓は全てが農民ではなく、廻船を使って
港から港へ産物を運ぶ海民も百姓。
日本の歴史で最初に手形の信用流通を
生み出し、ささえたのは
悪党と非人なのだそうだ。
歴史を自分の都合の良いように
解釈しょうとする人達が
百姓=農民としたいらしい。

どんどん過去は人為的に都合の良いように
加工されていく。













子孫繁栄

前にも書いたが
地球の誕生から現在までの時間を
エッフェル塔の高さにたとえれば
人間が登場してから現在までの時間は
塔最上部の避雷針の先端のペンキの厚さだそうだ。

一日の長さにたとえれば人間の登場時刻は
23時59分59秒だそうだ。

tuki1

人間はその短い歴史でいったい何を残してきたか。
その時代の天才は地球の法則、宇宙の法則、人間を表現することを
その時代の権力者は壮大な都市や国境と人間の支配関係を
その時代の宗教家は、後の世の権力者や闘争に助力を
その時代の発明は人間の満足を

オゾンホールをつくる、地球を温暖化させる
森林を伐採する、大気汚染、海洋汚染、放射能汚染
自然には分解不可能なものの遺棄

地球のためになることなどなにひとつとしてない。
すべて人間のためである。
人間のためだけである。
人類は 地球の破滅のために登場してきたのではないか

しかし人間同志でもいがみあい殺しあう。
個体数調整のためか戦争や大量殺戮を行う。

地球破滅が人類の目的なら、もっと増えなければならない。
殺しあってはいけない、放射能汚染のための核兵器使用ならともかく
戦争などしている場合ではない
主義主張、せこい利権、自己保身でいがみあってる
場合ではない。
もっと増えねば。
そして動物を殺し、森林を伐採し、化石燃料を燃やし。
地球の生命に終止符をうつ

「自分達の子孫のために美しい地球を」
などとはとんでもない、

美しい地球をのこすなら人類は破滅すべきである
子孫など残してはならない
人類が繁栄する最終目的は地球の破滅だ
邪魔者と見れば、それを根絶やしにする発想の持ち主が
いう言葉ではない。