中論 帰敬序.第1章 | 路傍の如来   多々方聖道石  こよなき幸せの仏教     

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中論『根本中頌(こんぽんちゅうじゅ)』
 
帰敬序

この時空に於いては.何ものも消滅する事なく(不滅).何ものも新たに生ずる事なく(不生).何ものも終末ある事なく(不断).何ものも常恒である事なく(不常).何ものもそれ自身と同一である事なく(不一義).何ものもそれ自身において分かれた別のものである事なく(不異義).何ものも我らに向かって来る事なく(不来).我らから去る事もない(不出).戯言(形而上学的議論)の消滅と言うめでたい縁起の理(ことわり)を説きたもうた仏を.諸々の説法者の内での最も勝れた人として敬礼する…

※八不中道 

すべての存在は相依相待の関係にあり.他から独立してそれ自体(自性)として存在するものは一つも無く.因果関係(縁起の道理)に従って.暫定的に表れては.暫定的に消えてゆく流れであり.更にこの八不には.真理に合する中道の実践も説かれています…

第一章 原因(縁)の考察


1.諸々の事物は何処にあっても.如何なるものでも.自体からも.他のものからも.自他の二つからも.また無因から生じたもの(無因生)も.あることなし…(縁起は不生なり)

2.縁は四種ある.原因としての縁(因縁)と.認識の対象としての縁(所縁縁)と.心理作用に続いて起こる為の縁(等無間縁)と.助力するものとしての縁(増上縁)とである…第五の縁は存在しない…

3.諸々の事物を.それらの事物たらしめるそれ自体(自性.本質)は.諸々の縁の内には存在しない…

それ自体(本質)が存在しないならば.他のものは存在しない…

4.結果を生ずる作用は.縁を所有するものとして有るのではない…また作用は縁を所有しないものとして有るのではない…縁は作用を所有しないものではない…或いは.縁は作用を所有するものとしてあろうか…そうでもない.

5.これらのものに縁って結果が生ずるのであるという意味で.それらが縁てあると人々は言う…しかし結果が生じない限りは.これらのものは.どうして縁でないものではないと言う事があろうか…それらのものは縁ではないのである.

6.ものが有るときにも.無いときにも.そのものにとって縁は成立し得ない…何となれば.ものが無いときには.縁は何ものの縁なのであろうか…

また.ものが既に有るときには.どうして縁の必要があろうか…そのものは既に有るのであるから.今更.縁を必要としない…

7.ものは.有るものとして生起しないし.無いものとしても生起しないし.有り且つ無いものとしても生起しない…

こういう理由であるから.何ものかを生起せしめる原因なるものが.どうして成立し得ようか…

何ものかを生起せしめる原因なるものは.理にあわない.

8.有るものとしての此のものは.対象を有しない(無所縁)と説かれている…処でものが対象を有しないのであるならば.どうして対象(所縁)が成立し得るであろうか…

9.諸々のものが.未だ生じないうちに滅すると言う事は有り得ない…それ故に生じた直後に滅するという事は不合理である…

また既に滅したものには.如何なる縁が存するであろうか…

10.それ自体(本体)の無い諸々のもの(有)には.有性(実在性)が存在しないが故に.この事が有るとき.この事が有るという事は可能ではない…

11.諸々の縁の一つ一つの内にも.また諸々の縁が全て合した内にもその縁の結果は存在しない.諸々の縁の内に存在しないものが.どうして諸々の縁から生じ得るであろうか…

12.もしも[それ(結果)は.諸々の縁の内に存在しては居ないけれども.それらの縁の内から現れ出るのである]と言うのであるならば.もしもそうであるならば.結果は縁でないものの内からでも.現れ出ないのであるか…

13.もしも[それ(結果)は縁が変化して成立したものである]と言うならば.その縁は自存(自分自身に基づいて成立)しているものではない…

またもしも結果が自存しているのではない縁から現れ出るのであるとするならば.その結果はどうして[縁が変化して現れ出たもの]であると言い得ようか…

14.それ故に.結果は[縁が変化して現れ出たもの]ではない…また[縁でないものが変化して現れ出たもの]なのでも有り得ない…

結果が無いのであるから.どうして[縁]と[縁でないもの]とが有り得ようか…


◆中論 ❲注釈❳

中論で説かれているのは[実体性][実在性]の徹底した否定.つまりは[空の理論]なのです…

兎角.言語で世界を捉えている私達は.言語によって記述される対象が実在すると思っている(錯誤)がそれは虚妄であると説かれるのです…
しかし[無い]という事を直接証明する事は出来ないのです…

例えば[Aは無い]と言うとするならば.逆にAが有った事/有り得る事を前提にしてしまう事になるのです…

そこで[中論]では[有るとは言えない(無いとも言えない)]という言い廻し事が.ほとんど詭弁ではないかと思いたくなるほど純粋に論理的に証明されて行くのです…
例えば[歩く人]が実在しないという事を証明する論法として.歩いている人は歩いているか? また[歩いている人]というものが.更に歩くというのは不合理であり.それは歩く事はない…

歩かない人は.当然歩かないし.歩く人でも.歩かない人でもない人が歩くなどという事もない…
このような証明(論証)が次々と提示されていくのですが.どうしてここまでして[実体性.実在性]を拒否しなくてはならないのか…

それは無明の闇から解放される為であり.無明こそがドゥッカ(苦しみ.悩み.迷い.不安定さ.不完全さ…)の根本原因であるからなのです…

無明とは無知を意味する仏教用語ですが.ここでは実在.実存していないものを実在.実存していると思い込む事を指しています…

無明から.実在しない物への執着や所有欲が生まれ.人生の苦がもたらされると言うのです…
この種の中観派による仏教の論理は.個人の心の平安の為には良いでしょうが.社会思想としては理解し難いものでもあり.中には執着や欲望を消すとは.例えば不正義がなされていても気にならなくなってしまうような感性の劣化を伴う思想だと捉える向きさえありますが.現代の欲望的な社会思想に染まった世界こそ正に.空の教説から学ぶべき事が多々あるのではないでしょうか…まして常識という硬直した観念や概念に捉われて悩み.苦しみ.迷い.憂い.怒りなどを造り出している現代人の.ラディカル( 根本的.根源的.革新的.開明的)な変革の為には既存の観念.概念.ルールや制度などへの執着から一旦.徹底して断ち解放される必要があるのではないてしょうか…