托 鉢 | 路傍の如来   多々方聖道石  こよなき幸せの仏教     

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♡仏教の最高峰♡頂乗仏教♡成仏寺♡人々を堅固な安らぎ.喜び.幸福.満足へと導く.大乗.小乗.宗派.部派を超越した仏教.目覚め.乗り越え.解き放て.[覚醒][超越][解放]

JR上野駅不忍口前.辻立ち.托鉢.御相談 eメイルbongteng@live.com

◆托鉢
ある時.托鉢に出かけられたお釈迦さまは.お金持ちの住む街へと向かおうとする弟子たちに向かって.こう言われました…
布施は貧しい者ほどしなければならないのだ…
彼らが現在.貧しく苦しむのは.過去世から心貧しく.欲深く.布施の功徳を積まなかったからである…
心豊かで.布施を励んだ人は.この世で恵まれ.来世は恵まれた家に生まれる…
彼らは自らの報いを受けているのだ…
貧しい中から米一粒でも布施をして.功徳を積むならば.彼らは今の苦しい状態から抜け出せるのだ…

つまり.その意味する処は.本当に貧しい者の米一粒と.富める者の値千金とは等価であるのですから…
功徳を積ませる事で.心の貧しさ(悪因縁)から救うのが本来の托鉢の目的だったのです…
ですから辻立ち.托鉢行は乞食行.頭陀行でありながら.菩薩行とも慈悲行とも呼ばれる修養には欠かせない必須な行でもあるのです…

ついつい私たちは自分が得する事ばかり考え.それが幸せだと勘違いしています…
しかし実は反対なのです…
お金持ちになりたければ.先ず人に与える
信用されたければ.先ず人を信用する…
愛されたければ.先ず人を愛する…
とてもシンプルな因果の道理を.托鉢を通してお釈迦様は教えておられたのです…
そして現代日本人の心の貧しさも.本当は.この辺に在るのではないかと思うのです

施与する者には.功徳が増す…
如来への施与は.福徳を生ず…

一切万法 因果応報
一切万象 自業自得

功徳を積み上げてゆき.果報や福徳に欲するか.因縁(悪)を深めてゆき.不運や災禍を招くかの大きな分かれ道となってゆくのです…

布施の目安とは[どの程度の心の執着を減らせたか]であり.執着が弱くならない行為ならば.その行為は心に影響を与えていないし.その行為は.寄付.浄財.賽銭.善行ではありますが.施与の目的は達しては居ないのです…
たとえば.お財布にある小銭を募金したり.ボランティア活動に協力し.働力や自分の能力を提供したりする事は.功徳を積む事にはなりますが.布施する事の本当の意味である執着からの超越.解放には繋がって行かないのです…
つまり.その金額や多寡ではなく.貧しければ貧しいなりに.豊かなれば豊かなりに.私のものという執着心(貪欲)を乗り越えて行くことが.因縁(縁起法則)に従った応報.果報へ繋がり.運気.繁栄.輪廻.再生へと繋がって行くのです…

浅薄
無財の布施は慳貪を生ず…
仏教では.無財の七施(眼.和顔.言辞.身.心.床座.房舎)を説きますが.この七施とは.[金財とか物施するものが無い時.無い人]でも.と言う前提に基づいて説かれたものであり.浅薄なご都合主義や吝嗇(物惜しみ)な心を戒める教えであり.執着が無くならなければ.その布施は布施に値しないのです…
自分の利得しか.考えられない自我意識に塗れた
の貧しい人々の.の心の貧しさを救うのが布施(施与)や托鉢.辻立ちの真の目的なのです…
自分が.自分がの執着心が.苦悩を造り出し.成仏を妨げ.この時空に繋ぎ留められ.輪廻の激しい流れを繰り返しているのですから…

貧乏神
仏教では.豊かになればなるほど慈愛をもって社会や周囲のために還元していくのが.富める者の義務だと考えます…
貧乏神とは.心の貧しい人に[教育的指導]をしてくださる大切な神さまなのです…
万が一.貧乏神につかれたと思ったら.どうしたらいいでしょう…
「あっちへ行って!」と毛嫌いしても出ていってはくれません…
有るから.無いからと言う見解には関係なく.「お金がないから.余裕がないから.」と.心まで貧しくなったら.貧乏神が居ついてしまいます…貧しいながらも.自分ができることを惜しみなく人にしてあげる事が運気を上げてもゆくのです…
つまり.お茶碗1杯分しかないご飯を「分け合って食べよう」と言える思いやりが持てるかどうか…これがとても大事なのです…
貧乏神とは言い換えれば.吝嗇(もの惜しみ)にさせる.さもしい自分の心なのです…
福が来たら.喜んだり.施したりするのではなく.喜んで.施したりする豊かな心が.福を呼び込んだり.今ある福も.巡り巡って大福となって帰って来るのです…

托鉢と瞑想は.仏道修行では.欠かすことが出来ない聖道なのです…
一義としては.生命を繋ぐ為であり.執着から解脱する為であり.人々に功徳を積ませる為のものであり.辻説法の為でもあります.それは涅槃経にも説かれているように.お釈迦さまが死期を覚り.弟子のアーナンダを伴って最後の旅に出られても尚.托鉢と瞑想は欠かさず実行なされ.大工のチャンダの饗しに応えられ.振る舞ってくれた豚肉料理にあたって.体調をくずして.涅槃に入られたのですが.しかし決してチャンダに悪意はなく.それは死期を覚られて居られたお釈迦さまは.その前日に古くからの支援者に自分の記念(形見)としてか.自分が長年愛用なされていた托鉢をプレゼントなされていた事実からも明らかなのです…

では何故.ビクー(比丘.乞食)修行が欠かせないのかと言えば.一つに.勘違いや錯覚に過ぎない.所有物による無常な幸福に誑かされず.無一物での堅固な平安.幸福.歓び.静逸の実現の為であり.二つにプラパンチャ(妄想.観念.空理空論…)に陥らず.冒されず.社会.人間.世界の実相.本質を.見透す為には必須な実践であるからなのです…
托鉢とは一義的には僧侶が生きる為に必要な食を乞う行為なのですが.それは修行者(僧侶)にとって欠かす事が出来ない修養項目でもあり.禅宗が時たま行なうような行事ではなく.慈悲と無我の六波羅身蜜の心を以って.底辺から見える現実世界の本質.人間存在の本質.自分という存在の修養.そこから顕現する真理を依り処にした生き様…
お釈迦さまの歩まれた道を.如来のように歩み.如来のように行ない.如来のように考え.如来のように語り.如来のように生きる…聖道跡こそが.真の最上なる仏道だと思うのです…

先ず.僧侶(沙門.比丘)とは何ぞや…
修行者は未熟であり.僧侶は完成者なのではなく.修養に努める励む修行者が僧侶なのであり.修養に努める励んで僧侶(沙門.比丘)になる訳ではないのですから…
つまりは俗世を離れて修養する者を僧侶(沙門.比丘)と呼び.完成者(到達者)を如来と呼ぶのです…
よって.位階の上下を問わず.私は僧侶ですと宣いながら.大悟(勝儀諦)を啓いた訳でも.絶対真理(涅槃)に到達した訳でもないのに.不毛で盲目的な系譜に連なり.葬儀.葬祭を仏道と勘違いして実践や修養を疎かにして怠る生臭は.金きらな法衣を纏って偉そうに説法しようが.金きらな法衣の輝きで人々の目を晦まし.自らの輝きと錯覚させても.その者は僧侶(沙門.比丘.僧行)とは呼べない.僧業のいう職業者に過ぎないのですから…
僧侶(沙門.比丘)とは無一物であっても.自ら眩しく輝く存在を目指すのです…
因みに.自我からの解放を目指す比丘(ビク)とは乞食行を意味するのですから…


また上座部などでは.托鉢を連行(僧侶が連なるスタイル)で行なっていますが.経典を紐解けば.それが決してお釈迦様が為されていた正当なスタイルと言うわけではない事は容易に覗えるのです…
但し.国家宗教ともなり.僧侶(沙門)が巷に溢れるのも甚だ遺憾な光景ともなりかねず.比丘尼も在り.身の安全の為にも連行も致し方ないのですが…

またお釈迦様が自らの死期を覚り、アーナンダを伴なって最後の旅に出られても尚.何故に.托鉢を欠かされなかったのかという考察が欠落している上に.托鉢(乞食行)を惨めな恥ずかしい行為だと捉える未熟さと愚かさが.実践を伴わない書籍の執筆や.プラパンチャ(戯れ言.能書き.説教.空理空論.形而上の観念論.妄迷な与太話…)などへと走らせ.真理から遠ざかり日本では特に.徳川幕府によるキリシタン政策としての檀家制度や葬式や法要.墓地経営に活路を見い出させ.覚悟(世俗諦)を鈍らせ.大悟(勝儀諦)への道を自ら閉ざしてしまった感が歪めないのです…
ですから友人.知人や葬儀.葬祭の会派.集団から.幾度となく参加の誘いを受けますが.丁寧に辞退させて頂き…飽くまでも個人的に.礼儀を逸しない.如来が供養.法要するに値する方の依頼や希望には.出来るだけお応えするようにはしています…
ただその場合でも.お布施は[唱えたもので食うてはならぬ]というお釈迦さまが定められた戒律に遵い憐れみの功徳に役立てて居ります…