正 観 | 路傍の如来   多々方聖道石     

路傍の如来   多々方聖道石     

♡こよなき幸せの仏教♡精舎寺♡人々を堅固な安らぎ.喜び.満足.幸福へと導く.大乗.小乗.宗派.部派を超越した不偏なる頂乗仏教.目覚め.乗り越え.解き放て.[覚醒][超越][解放][鑑定][供養][浄霊]
JR山手線.上野駅不忍口前
辻立ち.托鉢.御相談 eメイルbongteng@live.com

一切は無常なり…
人々が安楽であると称するものを如来は苦悩であると説く…
多くの人々が苦悩であると称するものを.
如来は安楽であると知る…
物事を識り.実践しつつ真理(真実.事実.現実.実相)を了解した人は安楽を得る…
無所有堅固なり…

たざるものを失なうことなし…


かたち.音声.味覚.香り.触感.雑念.好ましく.愛すべく.意にそうもの…
それらを世人と神は.[安楽]であると認識し.またそれらを失なう時.それを[苦しみ]と認識する…
諸行無常なこの世界に於いて.それらは僅かで短命な[安楽]と引き換えに.自ら.大きな[苦しみ]を造り出しているに他ならず…
自我への執着を断滅する事が[安楽]であると如来は観る…
正観する人の考えは.一切の世人とは正反対なのです…
この見難く.解き難き真理を見よ…
無明で盲目的な人は.ここに迷っている…

所有の次元の事物で得る幸せは.脆く.儚く虚しく.短命で無常な小楽…
智慧(叡智)の悟りで得る幸せは.堅固で.静逸で.奥深く.常住な大楽…

悦楽こそが大悟への一歩…
涅槃(ニルヴァーナ)への道なのではなく.道の上に涅槃(ニルヴァーナ)は在るのです…
涅槃(ニルヴァーナ)とは渇望が断滅され.迷いや苦しみが消滅した絶対的で実存な安楽の境地なのです…
悦楽の中で智慧の悟りは啓ける…

多くの愚かな人達は.それが同時に心痛を齎している事に気付かずに.感覚に刺激を与える事が幸せだと錯覚していますが…
目ある人は.感覚を制御し.感覚に揺らがない平静な心の状態こそ最上の愉悦を齎す幸せだと識っています…

◆刺激
刺激とは.生じては消えさる夢幻なる現象に過ぎないもの…本質的には空なるもの.

世人は.眼耳鼻舌身意(六感覚器官)に.快い刺激を与える事が幸せだと勘違いし.…
眼耳鼻舌身意(六感覚器官)に.不快な刺激を与える事が”苦しみだと勘違いしています…
しかし.生命とは不快な刺激に生かされ.快い刺激に惑わされてしまうものなのです…
例えば.空腹とは不快な苦しみです…
生命とは栄養補給して行かねば.その生命を維持できませんから.不快な苦しみで食事を催促するのです…
その食事も.栄養素を吸収し快く消化をしたら.今度はそれを排泄しなくては.生命を殺す体内毒素となりますから.不快な苦しみで排泄を催促するのです…
つまりは不快や苦しみとは生命維持の為の催促であり.その不快な苦しみがなければ食事もせず.排泄もせず.下らないゲームか何かに熱中しながら.遠からず自死してしまうだろ愚かな主人を導く.救世主だと言えるのですから…

またギャンブル好きな人とは.ギャンブルの刺激を味わう為の金銭は.必要とするでしょうが.決して金銭に執着している訳ではなく…また本当にビジネスライクな人も.金銭に執着しているように見えて.その実は金銭の多寡は単なる便宜的なスコアボードに過ぎず.惜しむらくはそれらから与えられる刺激こそ生きる目的だと勘違いしている処ではないでしょう…
それは無常なる刺激に翻弄されながら.少しの歓びと引き換えに.沢山の苦しみや不満の中を生きて.終には夢幻の如く露と消え去る.風の前の塵芥に同じなのです…
何故ならば.生きた証は.物質的な前世の物事でしかなく.例えば転生して.道端で腹を空かしてる.のら猫である貴方とは無縁な事柄となるのですから…
この世に繋ぎ留める因縁となる煩悩から生じるものを捨て去り.解き放たれた覚者は.この世と彼の世とを.ともに捨て去る…

一切は無常であり.無我であり.空であり.苦である…
無常なるものは無我であり.無我なるものは空であり.空なるものは苦であると知って.主観に偏らず.また客観にも偏らず.主観と客観の中観を目指せ…
これぞ真の正観である…
在るがままに幸せなり…

命は素晴らしい…
生きていること自体.最高の快楽である…
智者は.この当たり前のことを.死に直面せずとも知っている…
だから毎日が輝いているのだ…
ところが凡愚ときたら.幻想に過ぎない名利の為に.大事な命を削り.命の意味を捻じ曲げている…
そして死に直面した土壇場に立ったときには必ず.もっと生きたい.もっと存在して居たいとか.あの時.あーすればよかった.もっとこう生きればよかったなどと嘆き.奥深く幸せを噛み締め.味わい尽くす事もなく.生と金財への強烈な執着と後悔を残して.無明な業(カルマ)だけを携えて.次の何かへと成り続け.連鎖し.継続してゆくのです…

諦観とは.諦めの意味ではなく.覚りの意味だと凡愚は宣う…
如来は言う…たとえ.堅固で有難き真理であったとしても.愚か者や邪見者に幾ら説こうが.決して聴かれぬもの.徒労でしかなく.疲れるだけ…
故に諦め.機根が調うを待つを言う…