乞食坊主と物乞いシッダールタ | 路傍の如来   多々方聖道石     

路傍の如来   多々方聖道石     

♡こよなき幸せの仏教♡人々を堅固な安らぎ.喜び.満足.幸福そして大悟へと導く.大乗.小乗.宗派.部派を超越した不偏なる頂乗仏教.目覚め.乗り越え.解き放て.[覚醒][超越][解放][鑑定][供養][浄霊]
JR山手線.上野駅不忍口前
辻立ち.托鉢.御相談 eメイルbongteng@live.com

雑阿含経典(サンユッタニッカーヤ)より…
我らは.剃髪し粗衣を身につけ.托鉢で暮らしている…
このような貧しい生活を送るのは.生活苦や他に当てがないからな訳ではない…
我らの心身を蝕む苦悩や煩悩から解脱し.自由に為るためであり.智慧(叡智)による真理を覚り.衆生に功徳を施し.導かんために.此のような生活を送るのである…
とこしえの平安を得るために.とこしえの平安を伝えるために.修養するのである…
成功や名声のためでも.人の上に立つためでもなく.真理を覚り衆生に慈悲を施すために.此のような生活が欠かせないのである…

僧侶は比丘(ビクー)とも呼ばれますが.これは乞食の意味でもあり[忍耐と堪忍]とを養い.所有の次元への妄想的執着から.存在の次元へと解脱するために比丘(僧侶)の修行には欠かせないものが[托鉢]であり.お釈迦様がなさった経験的.実践的な修養法なのです…

しかし.今日ではお釈迦を神格化する余り.語られないのですが. お釈迦様ご自身が.成道後も托鉢(門付け.辻立ち.遊行など)は欠かさる事はなく.お釈迦様が常に仰っていた[私は真理へと導く師ではあるが.決して教祖などではない]と言うお言葉も.言わば[真理へは.その人.その人が.自らの努力と智慧と実践で到達するものであり.自己解放は人がその真理を実現する事によって得られるものであり.高い位置から.神あるいは外的な力により.運命を差配されたり.審判されたり.その従順な行ないに対する報酬や恩恵として与えられるものではなく.また神や精霊から啓示を授かった存在だと嘯く教祖とか開祖という類のものではない…]と仰っているのです…

涅槃経に描かれるように最後の旅の途上でも托鉢は欠かされず.入滅されていらっしゃり.また教団(サンガ)が繁栄してゆく過程においても.弟子達に説話をなされるか瞑想(内観)をなされるか休息なされている時いがいは.托鉢行をなされていたのです…
それは.ジャイナ教の経典にも記録があり.[仏教の精舎]に.何時.伺っても.お釈迦様は不在であり.いつも対応してくれる舎利子(シャリプトラ)か摩訶迦葉(マハーカッサパ)が尊師なのかと.認識していたようなのです…
お釈迦様もまた[托鉢行]の中に布施(施与の功徳)自戒.忍辱.精進.禅定と智慧をもたらし[真理][解脱][大悟][涅槃]へ至るための全てを皆具足した修養方法であることを.見出されていらっしゃたのです…
忍辱に於いては.お釈迦様ご自身も心無い者達から[物乞いシッダ-ルタ]などと嘲られたり.揶揄されたりしたそうです…
そんな時[良い修行である…ありがたい…]と意にも返されなかったのでしょう…
お釈迦様は弟子や信者が増えても.自らは鉢を持ち.市中へと托鉢されたようで.今行われているような連行は.尼僧が増え.治安や安全な意味あいで上座部により行ぜられるようになったのです…

また遊行の時には.弟子の一人か二人を伴い.遊行(行脚)されて居られ.沢山の弟子を伴って遊行や托鉢をなされてる遊行図などは後世の創作(フィクション)に他ならないのです…
それは涅槃経(マハパリ 二ルバーナスッタンダ)に語られるアーナンダを伴って遊行と托鉢が日常であり.その途上で入滅されたという事実が.全てを物語って居るのではないでしょうか…
現在.托鉢で生活する僧侶が減り.それは同時に[存在の次元]へと向かう僧侶が減った事を意味し.[所有の次元]で悠々自適に.安易に暮らす道は僧侶の道ではありません…
托鉢で生活する者の中には.偽者も確かに紛れ込んでいるのでしょうが.その者達は聖なる道も覚らずに.法喰を食むことも知らない哀れな者なのです…
しかし真に聖なる僧侶も乞食坊主の中に居るのです…
大寺院を構え金襴な法衣を纏い奥の院で踏んぞ反り返って言行が一致しない能書きを垂れ空理空論を説いている者の中には.真には聖者も高僧も生まれようがないのです…
釈迦尊の聖なる道の跡(聖道跡)を歩むことこそが真の修行者の仏道なのであり.また各派が行う1.2年間の研修は修行ではなく.見習い修行にしか過ぎないのです…
僧侶とは修行の道に在るのが僧侶なのであり.在家社会の[所有の次元]の本質を見抜き.在家を離れ出家者の[存在の次元]へと向かうのが.僧侶であり聖道跡を歩まんとするは.瞑想三昧も道ではなく.読経三昧も道ではなく.法要三昧も仏道ではないのです…
三学の[戒律.禅定.智慧]もまた托鉢の中に在り.身をもっての説法も托鉢に在り.六波羅蜜もまた托鉢の中に在り.仏法が衆生の中にあるは托鉢に在るのではないでしょうか…
釈迦尊は仰った…
托鉢とは心を洗ってもらうための水桶である…
施与とは水を必要としない心の沐浴である…
乏しき中から分かち与える者は.法を実践することになるだろう…
百千の供犠をなす者の百千の供犠も.そのような施与を為す者の功徳の百分の一にも値しない…
施与するものには功徳が増し.果報が在る…
この世の富は捨離してゆく物…
施与したる善行という財を持ちてゆく…
賢者は福業を行ぜよかし…
それは死後にも伴ないゆく財宝なりせば…

食(じき)をば他人に乞えばとて.それのみにては比丘ならず…
過ちの法.受持すれば.それにて彼れは比丘ならず…
この現世(うつしよ)の善悪を超え.清浄の行に生き.思慮深く世を歩む人…
彼れこそ比丘と呼ぶに相応(ふさわ)し…

◆戸外経
我らは住戸の外に.又は街の四辻に立ち.或いは各自の家にゆきて戸口に立つ…
托鉢によって自分の得たものを軽んじてはならない…
施しを得たのはよかった.得なかったのもよかったと思いなさい。
例え得たものが少なくとも.修行者が軽んじる事なければ.怠る事なく.清く生きる修行者を神仏も賞賛する…
媚びる事なく.世間話をする事なく.当然として.平然に施与を受けよ…
策して施与を求めるな.人々と親しく交わるな.荒々しい言葉を以って敵対的に応えるな…
自ら知って己を制し.自ら知って多くを語らず.これ聖者の行なり…
罵られたとしても.敬礼されたとしても平然とした態度で臨め…
仏道を皆具したる修行は托鉢行と内観なり… 
釈迦尊は仰った…
俗世の利得を目指すのも一つの道.涅槃を目指すのも一つの道…
だが如来を師とする仏弟子たちよ.汝らは俗世の利得を貪ってはならぬ…
貪欲のその道から遠去かれ…
寿命が永かろうと短かろうと我々は今、この時を生きるしかないのだ…
世界が如何に広大であろうと今、立っているこの場所に立つしかない…
世の中に幾筋の道があろうと目の前に延びるこの道を行くしかない…
過去.現在.未来を同時に生きる事も.此処と其処に同時に立つ事も出来ないのだから、ならば我々は一つしかない身体でどうして二つの道が歩めるだろう…
ましてこの二つの道が向かう先は.正反対なのだから…
ひとつは[所有の次元]への道.もうひとつは[存在の次元]への道…