『悪人』を観ての感想

「誰が悪人なのか」「誰かを悪人にしたい」「自分は善人でいたい」
「その悪を行なわず、善を行いましょう」。

 理性では分かっている。だが、人間は理性通りに生きられない。「わかっちゃいるけど止められない」…またそれを仕方ないと自己弁護してしまいがちだ。

「人間だもの」と

「すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」
(パウロ)
「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』13章)


 主人公の青年、祐一は、孤独の淋しさ・人生に対する鬱屈感などを紛らすために、携帯の出会い系サイトを利用している。さびれた田舎の村では同年代の仲の良い友人などはいないのだろう。皆、都会へでてしまったのだろうか。年寄りばかりで、話し相手もいない。働き口も少ない。母親は家出したまま。寝たきりの祖父の世話は自分でするしかない。代り映えしない人間関係、新たな出会いがないという小さな地方村の影の部分が見え隠れする。一方、国道沿いの大型紳士服量販店に勤める光代も人生の孤独の中にいる。『誰も私のことなど理解してはくれない』と思いながらも『本気で誰かと出会いたい』と出会い系サイトを利用した。また、OLの佳乃は孤独感を紛らわすための遊びとして出会い系サイトを利用している。出会い系サイトの利用法としてはこの方が大多数であろうか?
 
 現代社会の『孤独が怖い』という闇が漂っている。「孤独感をどう味わうか」は人によって様々だろう。人はその孤独感を埋めるため、紛らわすため、何かを利用したり、誰かを利用したりする。

 そこに「業」の連鎖が起こるのだと思った。「業縁」が爆発し、周りの人に影響を与えまた爆発が起こる…
 登場人物、誰もの意識無意識には「幸福を求め」「幸福でいたい」との思いや衝動を持っている。
 ただ、

「幸福を求めることは、おそらく、人間存在そのものといっていい程、本源的要求なのでしょう。それ故に、無限に見境いなく人を誘ってゆく力であり、同時に歯止めがきかなくなる力でもある筈です」(吉野弘)

 幸福の追求には、「私たちが…」「私たちだけが…」「私が幸福であれば…」という偏向、あるいびつな我執性が隠れている。だから、祐一が自首しようとした時、光代が「一緒にいたい」と望まず、自首を止める行動を起こさなかったなら、こんなに響力が及ばなかったはずだ…そこで止められたらこの物語はまた別の話になってしまうのだろうが(笑)

 周りの人々を悩ませ、苦しめ、自分も苦しんでいく。その止まらなさ、止められなさが「業」のスパークなのだ。
「こうならなかったら、ああしなかったら…」「出会い系サイトがなかったら…」は、すべて後の祭りだ。

 あるのは今の結果だけ。
 
 
「もしも…こうじゃなかったら」という思いを人に喚起しうるのも、小説や映画作者の意図するところだろうが。


「誰が悪人か?」

 だから光代が一番の悪人だ。最後も「あの人は悪人だったんですね」なんて他人事のように言ってる。自分の我儘で自首させなかったくせに。という意見もあると思う。なぜならそれは僕の意見だ。僕自身の投影か!(笑)

 自分の罪を自覚し、光代を助けようとした(僕にはそう見えた)祐一は、ある意味本当の「悪人」だったと思う。自分を「悪人」と自覚していたんだと思うのだ。その自覚が一段高い次元での慈しみを生んだと思いたい。

 昔、習った『非暴力』のワークショップでは、「どれだけ自分が暴力的であるか」を知ることから始まる。相手の人に、いわれのない悪口や暴言を吐いてもらう。ワークだから現実的ではないが「自分」の習性、心の習気が「暴流」(無意識の根源(阿頼耶識))なんだと思った。

 順境の時は、優しいあの人も、逆境になったとたん、つまり思い通りにならなかったらたちまち野獣のようになってしまう・・・この野獣性、残忍性は人を噛む前に自分を噛む。自分の優しさや慈しみの心をかみ殺してしまう。事実、主人公の青年は祖父を慈しみ、人に対する思いやりの心も持ちあわせていた。
 
 一瞬の縁に触れ、そこに修羅、地獄が現成してしまう。その獣性の余波がたまたま関係のある周囲に向けられるときに、人はそれを残忍であるとか、凶悪、悪人とかと非難する。   
それは他の登場人物もまた同じだ。優しかったあの面を一瞬にして投げ捨ててしまう。そしてそれは


「我もまたしかり」。


 親鸞さんは言いました。「さるべき業縁がもよおせばいかなるふるまいもすべし」(いざとなったら何をしでかすかわからない自分だと)

「善人でいたい」と望み、『本当の善人』に成ろうと必死に努力した人は世の中にどれぐらいいるのだろうか。「善」を必死に望み行い、その「善」が、不完全であり、限界があることを知り、「善を尽くせる」と思っていた自分に死んだ時、「悪人」の自覚が生まれるのだろう」。「善業もまた業なり」なのである。

「業」を「業」と思えない。それが「凡人だもの」・・・(完)

「本当の話し合い」について

 今日、ラジオで鎌田慧の「いのちの対話」を聞いていた。鎌田先生は「がんばらない!」の著書で有名な長野の内科医だ。対話で大事なのは、

「考え方を一つの事に統一しないこと。違う考え方を尊重することだ。」

と言っていた。

 自分の考え方に相手を同調させたいと思うのが自我の愚かさであり、哀しみです。

「99%は自分のため、あとの1%だけでも、相手の立場にたつことができれば、少しは世の中が明るくなるんじゃないか」


 テーマはこれからの日本について必要だと思うこと。

 十歳の男の子がこう言いました。
「今の僕には、日本のことはよくわかりませんが、まわりに捨て猫や捨て犬がなくなればいいと思います。僕の家では、飼い犬二匹と三匹のネコ、あと野良ネコが五匹餌を食べにきます。みんな可愛いです」

猫派の人も犬派の人、それ以外の人も彼にはリスペクトだと思った・・・


「本当の話し合い」の「本当」ってどんなことだろう?「本当」って。「本当」と「本当じゃない」ことの基準って?
 「この話し合いは本当じゃない」ということは本当のことなのか?


「本当のことを知らなければ、本当でないことを本当のことにしてしまう」

は、たしか、安田理深先生の言葉だ。

じゃあ、本当のことって何だ?

 もし、職場での話し合いが、本当の話し合いでないなく、居酒屋での話し合いが本当のような感じがするというのならば、職場ではなく居酒屋で話し合いすればいい?

本当にそれでいいのかな?

居酒屋では愚痴が言いやすく、職場では言いにくい。酒が入らないと、口が回らない。「飲み二ケーションが必要だ!」も、言い訳のような気がする。本当のこととは隔たりがあるような気がする…
 
「犬派の人は、犬が主人に忠実なところが好きなんだ」とネコ派の一部の人は言う。
「ネコ派の人は、ネコが気まぐれでこっちの言うことを聞かないのが好きなんだ」と犬派の一部の人は言う。もちろん、犬派にもネコ派自身の人の中にも同じように自認している人もいる。犬派とネコ派の人が「人間とペットとの理想的な関係」という話し合いをすることは可能なのか。その前に「私の家のたまちゃんは、ペットじゃない」という人もいるだろう。まず、自分の立場を明らかにするということが先決のような気がする。話し合いはその後だ。でも、その立場を明らかにするということも難しい気もする。犬派の中でたった一人でネコ派を主張するのは勇気がいるだろう。

 日本の企業での話し合いの場は、話し合いではないという。もう話し合いの前に、反対派に対する根回しや談合によって統一見解が決まっているという。しかし、根回しができなくても、やはり話し合いにはならない。昔、ある宗教家の選挙(宗教家の選挙って(笑))で、二人ともお金持ちで、表立っての泥仕合いになってしまった例もある。


 「話し合い」という名称も可笑しい。結局は「力」でねじ伏せられてしまうので、どうせなら「パワハラ」にしたらいいと思う。「では、今日の『パワハラ』の議題は、これからの職場環境の改善についてです」とか・・・

 「『パワハラ』なんだから、しょうがないよ」とか思う人もいるが、「『パワハラ』って言ってもいろんな「パワー」があるでしょう?」とか言われても続けたらいい。

 上司も「今日は逆『パワハラ』してみようか?じゃあ、平社員の柴山。お前が社長だ」とかなったりするかも。
 だんだん「『パワハラ』って面白くない?!」とか言ってくれる人がいたりする。そうしたら、『パワハラ』の質が変わってきたりする。

「私『パワハラ』の進行やりたい」とか、「この議題つまんないから、社長、今日は『相撲』でもやりませんか」とか。そして思わぬ伏兵、安田係長(155㎝)の過去が露わになる。学生相撲全国ベスト36位。

「私はこんな『パワハラ』がしたい」という『パワハラ』の表明が、「本当の話し合い」の始まりなのかもしれないと、僕は思った。今日この頃である。



第一章「私が身体であり、身体が私である」

 泰造(仮名)さんは、「自分自身の『身体』を自分自身で『動かしたい』」という衝動が物凄い。たまに僕のワークの実験台になってくれる。

「自分で動かさなくていいんですよ」と言ってもそれを「やめてくれない」。

やっぱり他人に「動かされる」感というのは、承服できないのだろうか。

足全体を動かすことを止め、ゆっくりと静かに腿に手を置いた。

すごく張っている腿の筋肉(名前をすぐ忘れる(笑))さんがそこにいた。

僕自身もふーっと息を吐いた。

長い長い道のりを思った。

泰造さんを支えてきた70何年かの日々。

それは泰造さん自身でもあると思えてきた。

「たまには休んでも大丈夫ですよ」と思った。

すこしだけそこが緩んだ気がした。
泰造さんの表情も少し緩んだ。

もう一度、足のワークを少しした。

僕自身も一緒に「動いた」。

歩いてもらった。「ちょっといい感じがする」と言ってもらえた。


「動かす」「動かされる」の関係と「動き」の違い。「動かす」と思わず、「動かされる」と思われず、「動いている」「動きのままに」「一緒に動く」が、「動き」の一つのテーマだ。それには、ワークそのものの質の向上もあるし、それ以前の信頼関係を構築することが必要だと思った。


身体は見かけではない
身体はスペクタクルではない
身体は人に見せるものではない
その筋肉の力や
運動の大きさや
速さを人に誇示するものではない
身体は世界だ
身体は意味だ
身体は時間だ
身体は生きた経験
身体は
我々を取り巻く
無限の虚空への
解毒剤だ
(C・ペルフェッティ)


〈身体化された心〉
赤ん坊は、たえず動いて、世界を手探りしている。彼らは、たえず自分の身体を使って働きかけ、行動しながら、世界がどんなものか確かめている。ここにはわたしの小さい指があって、それでいろいろやってみる。ここには哺乳瓶がある。ここにはお母さんがいる。これはぼくの鼻で、僕の足で、それに噛みついているんだ……という風に。
(認知神経学者 F・ヴァレラ)

「認知とは世界の表象ではなく、世界を生み出すことである」(同)


 赤ちゃんには、概念化や抽象化がない。自分の身体、五感をフル回転して直接世界を掴み取る。

 最近、なるべく電灯をすぐに点けないように習慣付けている。

エコだからである?!いや、ケチだからである?!

それもある(笑)が、「見る」ということに重きを置かない訓練をしているのです。

家はお風呂に行くために、本堂の中を横切って行かなければならない。

電気代がもったいないので、懐中電灯で通っていた。
ある日の風呂帰り、懐中電灯を風呂場に忘れたのです。そして、明かりなしで本堂へ。

その時、「闇に眼が慣れてくる」ということに気づいた。

さらに、手を使い、柱を確認したり、足で段差を感じたりできることに気付いたのです。

それが、面倒くさいけれど面白いのです。

今まで、「目に」「見える」ということに頼り過ぎていたなあと。

さらに、慣れてくると、例えば、賽銭箱に足がぶつかる直前に、危険を予知する直観が働くのです。

それでもぶつかりますが(笑)
賽銭箱と足との空間(あいだ、間合い)が縮まる感じが分かるのです。

面白い。

空間を認識していても何でぶつかるのかもわかりました。

頭で予測して動くと、賽銭箱の気というか存在の波動が来るのが遅いのです。
段差も予測すると、一歩出てしまい。止まれず落ちてしまう。

そう思うと、今の高級車がコンピューターで危険を認識し、車の動作を制御してしまうのは、ある意味、人間の危険認識能力を退化させてしまう。

五感をフルに使って、闇に慣れる訓練は面白いワークになると思った。

自分自身の普段の習慣も把握しやすい。
目に重きを置くと、足下がふらつく。
見えないことによって脚下が見えるようになる?!

すぐに電気を点けない楽しみはこれからも続きそうだ。エコだし(笑)

暗闇と明かりについて面白い二つの話聞いた。
まず一つは、漁師さんの話。夜の海で漁をして迷ってしまった時は、自分たちの明かりを消し、真っ暗にすると、遠岸の灯台や港の灯りが見えて助かったという話。

もう一つは、屋内の立体駐車場の話。「屋内では必ずライトを点けてください」という注意を何故するかというと、暗いからではなく、ライトによって車が来るのが、歩行者や運転手に確認できるからという話。

面白いですね。明かりを消すことによって、見える。明かりをつけることによって、見てもらえる。

状況状況によって道具を使い分ける。道具を使えるってことは、自分自身を使うということにも通じる。

目をもっと使えばいいのだ。いろんな目を。使わないで使うということも。

武道や禅でいう「見ないで見る」「見て見ない」の境地になる日も近いはずだ(笑)