「坐禅のススメ

―からだコトバ身体論―⑪」 

 

「かかる世に何をもって楽しみとするか」

「呼吸するも一つの快楽なり」

            (西田寸心(幾多郎))

 

 こんにちは。今回も「呼吸」について徒然なるままに。

 前回は、坐禅時において身体を調え、次に「息を吐ききる」ってことが最重要課題ですよ。息を吐くことに注意を向けてみましょう。宗門の坐禅では、「欠気一息」(かんきいっそく)というんですよ。ということまで書きました。皆さん、一度ぐらい「息を吐き切」ってみましたか?宿題だったのですよ(笑)

 「欠気」とは「あくび」のことなのですが、「あくびのように大きな息をすること、つまり深呼吸のこと」(大森曹玄『参禅入門』)です。参考として大森老師の深呼吸の仕方を紹介しましょう。

 

 「口を開いて大気と下腹が直結するようなつもりで― 咽喉や胸を使わずに下腹部を収縮した力で胸底を空っぽにするつもりで綿々として長く吐いて吐きつくす。およそ三十秒ぐらいもかかって腹中の邪気や濁気を吐き出すのであるが、こうするとたった一息でいままでの環境ととたんに絶縁したような心境になるから不思議である。こうして吐きつくしたら下腹の緊張をゆるめると外部の大気の圧力によって鼻から自然に空気が入ってくるから、そのはいるに随って胸腹に充ちるまで吸い込む。吸い込みが終わったらちょっと息を閉じ、腰を張り出すようにして吸った息を下腹に、すくい上げるような気持ちで軽く押し込む。このとき、気張ったり、力むことは絶対禁物、肛門を締めるようにすることが要訣である。そして苦しくなる直前に前のように徐々に吐き出す。

 こういう深呼吸を四、五回ないし十回もくり返すと、坐る前の雰囲気から完全に離脱できる上に、気血の循環がよくなって冬でもホカホカとしてくる。そればかりでなく、心と体の調整がとれて入定を助けること甚大である」

(同前)

 

 長々と引用したのは、その説明の「親切さ」「懇切丁寧さ」を見てもらいたかったからです。まあ、現代っ子としては色々ツッコミたいところ(「肛門を締めるように」とか、「苦しくなる直前」とか)はあるのですが。

 息を吐き切り、息が自然に入ってくる感覚。それはとても新鮮で気持ちいいものです。息が充てゆく空間と時間の身体感覚。「深呼吸している時、あなたの身体はどんな風に動いていますか?」。呼吸が動きを支え、同時に動きが呼吸を支えているんです。

 以前、呼吸のワークをしている時、一緒にワークをしていた方に「息を吐き切ってみてください。息を吐き切ると自然に息が入ってきますよ」とお伝えしたら、吐くことに意識を集中し過ぎたのか、「息が自然に入ってくること」を信頼していなかったのか、はたまた僕自身の呼吸が乱れていたのか。その方は呼吸困難のようになってしまわれて、焦ったことがありました。

思うに、まず「呼吸を信頼する」ということが肝心です。岡田擔雪(たんせつ)居士はこう説明しています。

 

 「自分が意識して、特別な呼吸をしようとしてはなりません。即ち呼吸を呼吸にまかせて、自動的に呼吸を調節させるというのが呼吸の要領です」        

(『坐禅のすすめ』)

 

 いずれにせよ、坐る時間さえも取れないような人に対して「欠気一息だけはやりなさい」と頭を垂れて訓じたお師家さんもいました。

「さあ、ご一緒に。深呼吸してみましょう!」    

 

【宿題】

「ときには呼吸するだけのための時間

を、自分に与えてください」

(サラ・バーカー著『アレクサンダー・テクニーク入門』)

『坐禅のススメ』

―からだコトバ身体論⑩―

 

不安に押し潰されそうなときに、まずはじっくり深呼吸をして、思考、不安、身体反応をよく観察してみましょう。(大田健次郎 著

『マインドフルネス入門』)

 

 皆さん、こんにちは。今回から坐禅中の「呼吸」について、つらつらと思いながら述べてみたいと思います。

 さて、何年か前、ある俳優さんが考案した「ロングブレスダイエット」って憶えていますか?憶えてない?!では、簡単に。上半身、両腕を使い(何故か上半身裸?)大きく息を吸い、いっきに吐ききる。そして息を止める。それを繰り返してやります。実際やってみるとなかなか頭がクラクラしますね(笑)。そう、「息を吐ききる」ということはとても大切なことだと思います。我々現代人の呼吸は、浅く、息を全部、吐き出すような機会が日常にない。息を吐き出せる場所や時間、その方法を日常、どう見つけるかは身心精衛生上、有益なことかもしれません。オバさま方は日常、「お喋り」という呼吸法で、息を放して(話して)いるかもしれませんが?!しかしながら、「息を止める」ということは如何なものだろうかと思うのです。想像してみて下さい。息を止めてしまう状況とはどんな場面ですか?それは「不安」や「緊張」、「恐怖」や「怒っ」てる場面などではないですか。息を止めるということは、身体上、胸郭(きょうかく)に圧力がかかっている。「そればかりではなく、全身の静脈血はしばしば停滞し、そのためうっ血が起り、それが静脈の怒張(どちょう)につながります。またそれがエスカレートして静脈瘤(じょうみゃくりゅう)が生じます。それが肛門の周辺に出来れば痔となります。そして、…それは脳出血の引きがねともなります」(村木弘昌『釈尊の呼吸法』)。ですから、息は止めない方が良いのです。

 ここで急に、お釈迦様を話題にだすと、実はお釈迦様も菩提樹の下で安座し悟りを開く前の苦行時代、「断息(だんそく)」の行を一所懸命していたそうです。その後、苦行を止め「入る息を入る息と受け止め、出る息もまた心ゆくまで出されたのでした。それが動機となって、釈尊の心は大きく展開します」(同前)。そのプロセスも面白いというか、私にとっては非常に尊いと思いました。

 さて、この「入る息を入る息と受け止め、出る息もまた心ゆくまで出される」呼吸法、「入息出息の呼吸」(アナパーナ・サチ)は、お釈迦様によって、さらに改良されて、出る息のみを長くすることに重きがおかれる「出息長の呼吸」となります。吸う息も、吐く息も、両方、意識的に注意を向けるのは、我々凡人にはなかなか難しい。ゆえに一方だけの注意とは有難いことです。

 「真の呼吸とは入息を先とせず、出る息をしぼり出すことにある。出しきれば、おのずから同量の息が入息となって現れる」(同前)

 「釈尊の長息(出息長・入息短)および短息(力強く息を出す)はいずれも呼主吸従の呼吸法である」(同前)

 

 そう、「呼吸」とは「吸う」よりも先に「吐く」、つまり「呼吸」とは「吸うを呼ぶ」ということなのです。

 

 ガッテンしていただけましたか!?

 

 そして、そのことが我ら宗門の坐禅作法における「欠気一息(かんきいっそく)」ということに直結しているのです。 

 さあ!ご一緒に。

 まずは、身心に滞っている古い息をすべて吐き出してみましょう!

(つづく)


 人生観にも変化が生まれました。「枝葉末節派」との自称が卑下の味わいを減らし、「一隅を照らす」役割をしているのだと承認できるようになり、肩の力が抜けました。                  
神田橋篠治(精神科医)




 皆さんは朝の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』観ていますか?私は観ています。全話ではありませんが。先日も主人公常子のセリフに感動しました。「些細なことに対する心構えが大切なんです」。

 さて、今回も坐禅中の姿勢に対する一提案です。「背筋を伸ばして下さい」という言葉はよく聞くと思いますが、何回か前の回で、その言葉に対して「背骨はもともとS字にカーブをしているので伸ばそうとしなくてもいいんですよ」という話をしました。憶えていますか(笑)。今回は、もう一つ「天上から引っ張られているように坐ってくだい」という言葉です。ちょっと、実際やってみましょう。どうですか?確かに「まっすぐに背筋が立っている?!」ように坐れます。しかしどうでしょう?背中が少し張っているような感じはしませんか?この状態で30分坐るとしたらどうですか?シンドクないですか?
 では、こう思ってみたらどうでしょう。「頭のテッペンから百円玉を落としたら、お尻の穴にストーンと抜けるようなイメージで坐ってみてください」。ちょっと実際にやってみて下さい。上に引っ張られる方向性よりも下方向に落ちていくような状態。でも、ガクンとからだ全体が崩れ落ちているのじゃない。これが身体の「落ち着き」の状態です。
「上下の方向性が両方ある」ということです。上だけ、下だけの片方では存在しない。それこそ上方向だけを目指すなら一生懸命「空中浮遊」を完成させようとしている修行者みたいになってしまいます。
もう一つ言えば「重力と引力、その拮抗(きっこう)状態」に任せて「坐る」ということです。
さあ、もう一度やってみましょう!      合掌