『目は鼻端にそそげ』とは?


「見るものなくして見る」 
(西田幾多郎)

 みなさん、こんにちは。
今回は「坐禅の仕方」を教わる時によく使われている言葉について考察してみたいと思います。

「半眼」(はんがん)という言葉を聞いたことがありますか。よく「仏像の眼」とか、「仏様の眼差し」とかと言われています。つまりは、「すべてを見通す眼」、「慈悲の眼差し」だと思います。 

 坐禅を指導する和尚さんによっては、坐禅中の目線の置き方について、「目は半眼にして下さい」としか言わない人もいます。丁寧に言ってくれる方でも「仏像を想い出してみて下さい、あのような眼で」とか。具体的に言ってくれる方でも「一メートル前方に目線を落としてください」と言われるぐらいではないでしょうか。ひどい指導になると、「半分に開けてください」とか、「薄目で見て下さい」などと適当な教え方をする和尚さんもいるのでは?!自分自身、その説明で本当に坐禅できるのかと疑問にも思ったことのない人なのでしょう。しかしながら、僕自身も、本山修行時代に「一メートル前方に視線を落として下さい」と習い、それを参禅者の方々にも指導してしまいました。   
「もう少し分かりやすい伝え方ができたなあ」と今では思っています。

 何年か前から実践している身体教育法である、アレクサンダー・テクニークを学ぶうちに、どういう伝え方がベストなのかということがだんだんわかってきました。まず、比較してもらうとわかりやすいのですが、「一メートル前方に視線を落として下さい」と言われるのと、「眼というのは感覚受容器なので、見ようとしなくとも映像が入ってくるのです」。と言われるのではどう違うでしょうか。文章上と、実際にやってもらうのとでは分りづらいと思うですが、つまりはこういうことです。はじめの「一メートル前方に視線を落として下さい」と言われると大体の我々は、視線を一メートル前方に置いてしまうのです。「一メートル前方ばかりを見ようとしてしまう」ということです。さらに「目線を落とす」と言われたことで、顎を軽く引く程度なら良いのですが、下を向いて猫背になってしまうという傾向もあります。そこで「見ようとするのではなくて、入ってくるんだと思ってみましょう」と指導してみるのです。そうすると、「一メートル前方に視線が向かわない」姿勢が保てるのです。さらに、「視神経は脳の大脳皮質の後頭葉、つまりはもう後頭部です。後頭部のちょっと上に視床中枢というのがあって、そこで『見る』のです」。ですから「『見る』というのは目玉、あるいはレンズで見ているのではなくて、脳の後ろの方で見ているのです」「『脳の後ろ側に映像が入ってきているんだなあ』と思ってみましょう」と言ってみます。そうすると、「一メートル前方に視線を落とす」という説明で言おうしている姿勢、あるいは半眼に自然となるのです。ですから、「一メートル前方に視線を落としたような状態で坐ってみてください」と言うほうが正確だと思うのです。   

 長々と説明してしまいましたが、坐禅の先達は、このことをもっと簡単明瞭にこう言っています。『目は鼻端(びたん)にそそげ』と。そうすると、あら不思議、「一メートル先を見にいかない」姿勢にこれまた自然となるのです。
「ほんとかな?」と疑問が起こった方は、ぜひご自分自身で試し実証してみて下さい!
                                      
                      合掌                


 軽く視線を落とすとは、キョロキョロと目を動かしもせず、また一点を見つめもせずということです。これはなにも特別な見方をするのではありません。普段われわれはこの見方で目を使っているのですが、さて坐禅をしてこの見方をせよと言われるとなかなかそのようにできないのは面白いことです。即ち目の開き方も修行の一つだということになります。昔の先達達が坐禅の時の目の開き方の要領として、『目は鼻端にそそげ』と言われたのも、なるほどその指図にしたがって目を鼻端にそそぐと、自然と私が前に申し上げた視線を約一メートルぐらい前方に軽く落とすということとピタリと一致するのに驚きます。
(『坐禅のすすめ』岡田利次郎)
ワークショップ「『からだ』で学ぶ禅寺の身体作法」最終回の報告。

 この連続講座も第五回、とうとう最終回になってしまいました。この後どうするか?については後に書くとして、まずは最終回のレポートを。



では、「お拝」から?!いや、ちょっと待てよ。(「またいつもの動き?!」)
(「慣れた動作(お坊さんにとっては)」に戻すのは惜しい、お拝の動きを(知っているので)先取りして動いてしまうんじゃないか)と思い変更。(今ここの動きにフォーカスしたい)

そこで提案。

「まずは横になってみましょう」「そうして転がってみませんか?ぐるぐると(笑)」

二人して本堂内を転げる。この光景も面白い。しばらくゴロゴロ?!

「スムーズに転げるためには?!」

いったん休憩。横になっったまま天井を眺めた。

「なんだか、実家に帰ってきたみたいだ」「でも、なんだか、落ち着かない?!だって本堂だから?!(笑)」

「ヒンドゥー教徒が、転がって祈るという写真を観たことがあります」

「回るっていうのは、面白いし、プリミティブだ」そんな感想が出てくる。


◆文化人類学者 
岩田慶治先生の『スリランカでの見聞』(野村雅一『ボディランゲージを読む―身ぶり空間の文化―』)にこんな報告があるのを思い出した。

「身体で祈るヒンドゥー教、心で祈る仏教」

 ヒンドゥー教の信徒は行為的に、身体を使って、出来る限り神々に接近しようとするのに対して、仏教徒の方は仏、ないし仏像とのあいだに常に一定の距離をたもっている…

 仏教徒のなかにも、もう少し積極的な姿勢、たとえば五体投地のような姿勢をとるものもないわけではないが…。座って、合掌して、祈る。そういう行為のなかに仏と共にする瞑想が含まれているようであった。

 仏教徒が心で祈るとすればヒンドゥー教徒は身体で祈る。その身体、全身をあげて神々に迫っていくのである。そういう気迫が感じられた。


◆回っていると、たしかにトランスな感じになるような感覚はでてきそうだ。
 ヒンドゥー教徒の「より神さまに近づきたい!」という欲求の強さはすごいな。「迫ってゆく!?」
 そう考えると、仏教の方の、一定の距離を保ちながらのお拝などは、「こっち(自分)から近づかなくてもいいんじゃん」みたいな感覚もある。「向こう(仏さん)のが早い?」

 そう、「共に瞑想する」ということもあると思う。それと、「投げ出す」ということよりも、「いただく」ということに重きがある行為なんだとも思う。

「仏に、あるいは仏像に心身を接近させるといっても、仏は、あるいは仏像は悟りに至る窓のような存在だったのである。樹下石上に座って、遠くの山を見つめる。いや、その山の彼方の空を凝視する。目で見つめるのではなくて、瞑想のなかに虚空を現前させる。そういった態度を読みとることができたのである」(岩田慶治)

さらに、報恩感謝の「お拝」、「坐禅」、「念仏」。その行為自身に完成された行為が備わっている。


◆さてさて、そろそろ「お拝」に移ろうかな?!転げた回った後の本堂は、なんだか親密さを増したようで、空気感が柔らかい?!

「これから『お拝』?!となると、なんだか、水臭い関係なんじゃないか?!」(笑)
「あっ?!ちょっと待てください。すぐに起きないで?!アレクサンダー的に起きてみましょうか?」
そうして、エコ的?な、あまりエネルギーを消費しない起き上がり方のレッスン。…

そうしてから、今日のテーマ「お拝」

「まずは、普通に?!いつも通りにやってみましょうか?」
(お拝をやってもらう)

「どんな感じですか?」・・・・・

「いつもより楽な感じですね」

「おお!?面白いですね。まだワークしてないのに(笑)!?」
(「ワーク前ワークに助けてもらう?!」っていうか「ワークって何だ?!」)

◆さてさて、ではもう少し、アレクサンダー的なワークに付き合ってもらいましょう!

「背中が広く、長くなっていくと思ってみましょう」

「そう!背中は広く長いのです」

「しゃがむ時、上半身を下に落とすというイメージより、前後に伸びてゆくというのはどうでしょう」

途中、「犬が伸びをするように?伸びをしてみましょうか?」

「掌を挙げる前に、掌にお釈迦様の御足が降りてくるイメージで」

「呼吸はどうですか?」

「ゆっくりと吐いてみましょう」

…ジーンと充たされてくる…

「急がなくても大丈夫です。ゆっくりと起き上ってみましょう」

「そうそう、両足を揃えて立とうとせずとも、少しズラしてみるのはどうですか?」

「おお、これなら楽に立ち上がれます」

「では、もう一度やってみましょうか?」

 そんなやりとりが続く・・・・・

◆「こんなに一回のお拝に時間をかけたのは初めてでは?」
 
 お茶を点てながら思う。
 
 火鉢を囲みお互いにシェアリングする・・・。

◆最終回、だんだんと見えてきたと思う。「形なきワークの形」

 このアレクサンダー・テクニークのワークショップ、友人が継続的に来てくれそうなので、4月から、少し理論というか、もう少し「東洋思想(禅とか仏教だけだと狭い気がする?!)」との関連なども含めて学びあえればと思っています。

 先日、ブルース先生(大先生)と話をしていたら、ブルース先生にとっては「老荘思想の影響がとても大きい」ということでした。この方向性を僕も継承していきたいと思っている。

◆『アレクサンダー・テクニークと東洋思想』
 
 そして、僕だったら、禅や老荘、仏教ではなく?!
 まずは、オルダス・ハックスリーの『多次元に生きる』(片桐ユズル訳)をテキストにしたい!(『両生類の教育』『知ることと、さとること』はとても素晴らしいテキストだ!)

 井筒俊彦先生は「東洋思想にイスラムもユダヤ教も取り込んじゃえ」とか言っていました。故に、僕的には、アレクサンダー・テクニークも「東洋思想」に取り込んじゃう?含んじゃう、インクルージョンな方向性で!?

◆そうして…

「生きた弁証法が生起する。そしてその弁証法から何か新しい東洋哲学の構想が出てくるのではないかと考えるわけなのです」(井筒俊彦)

「私はユダヤ教とイスラームという、今までの日本の東洋学にとっては異質的であったものまでなんとか『東洋』のなかに取り込んで、そういう広い基盤の上に新しい一つの東洋思想の立場をつくりたいと思ったのです」(井筒俊彦対談集『叡智の台座』より)

どうぜん拝
『「からだ」で学ぶ禅寺の身体作法』のチラシを作った。

頭で思い描いたように、作れずイライラする。

どうPCのソフトを使っていいかわからない。

動作環境もよくない。

ちゃんと使えない自分の所為だ?!

ああ、もう?!

ぜんぜん楽しくない。


そうだ!あんましPCに頼らなくってもいいんじゃないか?

できることは自分でしてみよう!

そうそう、「自分が動く」って

アレクサンダーのクラスで、みどり先生が言ってたな!!

全部をPCでやろうとするから、うまくいかないのは当たり前だ。

PCに動いてもらおうと思ったら、
まずは自分から?!

自力で鋏をもって、糊付け、貼り付け、

「ああ、パソコンのしていることってこれだったのね!」

PCとのコラボ。

愉しくやれちゃったなあ。

「手に取って観てください!」