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 『身体は美姿勢を記憶する』

 美しく、恰好ええ商品文句である。

 しかし、この写真のモデルさん、ちょっと背中反らし過ぎやないか?!

   「流れるようなS字カーブ。それは美の象徴です。」

 そんな大げさにS字カーブを強調しなくとも?!

 まあ、まあ、宣伝や広告はよしとして…

 実際、試してみた。ビッ○カメラで。

   「おお!これ!いいんじゃない!」

 すっと、身体が整った時の坐禅状態のようになる。

   「おお!これは、手放せなくなるんじゃないか!」

 たしかに、「もう手放せません」のようなレビューもあったと思う。

 この商品に坐るだけ?!で、
 
 
 ほんとに身体が整えられるのだろうかな?

 新しい習慣を身体に記憶させていくってことは、とても大事なこと。

 
 たしかに、坐禅も「坐るだけ」なんだよなあ。

 でも、そこには自動的にただ坐るということだけではなく、
 自覚的?!自立的な、いや、もっと根源的な「坐る」があると思うのだ。

 
 説明すると、難しいのだが…

 
 そうだなあ、「ただ、道具とか医学とか、人為のサポートを越えている」というかなあ…

 重力や引力、その拮抗するエネルギー、
  身体内部の原初的な動き(アレクサンダー・テクニークではそれを『プライマル・ムーブメン
ト』とか『プライマリー・コントロール』という)があるのだ。


  もちろん、坐禅には坐蒲という専用の座布団を使う。

 そして、その、ポジショニングがすごく大事だとこの頃思うのだ。
 
 
  昔の人も言っている、「ケツの坐りが悪い」と。
 
  坐蒲のどの位置にケツを置くか?

  そのほんの少しのズレに気づくこと。からだのこと、体調のこと、坐蒲の湿り具合?!(笑)な

ど、日々変化している。


「道具の使い方」と「自分自身の使い方」の実践はこの頃のテーマだ。


 坐相には、見える綺麗や美しさ、正しさだけを求めたりしない落ち着きがあるのだ。
それを「兀兀地」(ごつごつち)という。

 美しさや正しさを強調するあまり、猫背を悪者にしたりしない。

 もっと広く、ゆったりとして坐る。

 しかし、かくいう拙僧も、「背筋を伸ばして坐りなさい」と言われ十数年。腰痛持ちの禅僧になり、アレクサンダー・テクニークに出会い、初めて、背骨がS字カーブしているのに気付いた次第なのだ!


「無理に背筋を伸ばさなくていいんですよ!もともと背骨って曲がってるんですから?」

「どんなふうに曲がってるかって?それは、自分自身の『からだ』に聴いてみましょうよ!」


「っじゃあ。こんな解剖学のイラストも参照してみましょうか!自分の『からだ』のイメージとどう違います?」



  そんなわけで、「坐る」をテーマにアレクサンダー・テクニークと坐禅のコラボレーションのワークを日々実験しています。

そして、新たな「坐り方」開発・研究中。


興味ある方は、「『からだ』で学ぶ禅寺の身体作法」でお会いしましょう。



 

 間に合ったら、上で紹介したアレ(MTGのbody Make Seat Style)、楽天で購入しときます。

「さあ、どうなるか!いっしょに試してみましょう!
 友人のお寺で定期的に刊行している読み物に一文を寄せてみた。
『禅寺で学ぶ身体作法』のワークショップの参考に。
 
 

 修行道場で身体作法を教わるときは、有無を言わさず身体に押し付けられるというか、強制的に身体で覚えさせられる。それはそれとして、頭ではなく身体にコミットしている教育法、学習方法ではあると思う。

 最近、日常の味わいにおいて(怠惰な生活習慣?!に溺れている身として)、
「(修行を)やらされながらもやれる、やらされながらもやらさしてもらっているという有難さがあったのだなあ」
 という実感がある(生来のМ気が開発されただけかも)。

 当時はそんなことは思わず、ただ「やらされている」感が強かった。だから、頭で納得してから身体で行為したいという思いが強く働いたのだと思う。今、行じている「行為の意味」を求めていたともいえる。「意味がなければ、動けない」「意味を感じながら動きたい」とも思っていた。
修行道場を離れた後、心理学の勉強、特にカウンセリングの実習において、再び身体性の重要さに気づかされました。「体得」や「体現」というような身体観、身体感覚を育てる教育観などに興味が湧くようになった。  

 「こころ」を学ぶということに対して、「こころ」だけに囚われてしまうことや、「こころ」の深みにはまりこんでしまいそうな恐怖感があったのです。さらに、それは「からだ」にも負荷をかけ、「からだ」をも壊してしまうんじゃないかと危惧しました。

 一方、「からだ」をお互いにほぐしてからカウンセリングを始めると、「聞きやすく」また「その場に居やすい」というようなことがありました。「からだ」あってこその「聞く」こと「行じる」ことだとも思いました。そして、もっと「からだ」のことについて学習しようと思い「アレクサンダー・テクニーク(AT)」という門を叩いたのです。

 アレクサンダー・テクニーク(AT)がどのようなものであるかの説明はとても難しいのですが、端折っていえば、

 「自分が何かをしようとした時にしている習慣的な筋肉緊張を緩和するための身心学習術」というような定義がいいのではないかと最近の自分は思っています。

 具体例をいうと、
 子どもが騒いている。注意をしなければならない。

 怒りの気分そのままで言おうとした瞬間、口をとがらせている自分自身に気づく。

 口をとがらせると後頭部が首を押し下げている。

 その状態に気づく。

「ああ、これが肩こりや頭痛の原因かも!?」。

 口をとがらせなくとも注意はできるのでは?!
 口をとがらせると怒りの口調になりやすのでは?!

 (そう0.5秒ぐらいで思ったとする。)

 口をとがらすのをやめてみる。

 すると静かで優しげな口調で注意できた。

 でもはっきりと子どもに届いているのは子ども全体の様子が見えていることでわかる。

 怒りで一杯な状態では言葉をぶつけるように言ってしまったり、相手との距離感などがわからなくなるものだ。

 周りの目、早く注意をしなければならいないというプレッシャーもある。

 緊張が高まっている状態だ。そんな状態に気づく。

 日本的に言うと、そこに「間」を置くことができるということだと思う。(物事はそんなに上手くいくわけないかな?(笑))。

 また、「間」には「間のび」、「間ジメ」、「間が悪い」、「間男」(笑)などの用語があります。「間」という時空間を洗練させるためにはコツや技術が必要です。
 
 ただし、上手くいくか上手くいかないかが重要ではなく、その時、いつもと違った反応や態度で居れたら、物事はどうなっていくのか、どう変化するのだろうか、やってみましょうよ!という姿勢が重要です。

 これは、AT教師が学習しているとてもユニークな教育観でもあると思います。

 「からだ」と「こころ」は切り離せない。しかしながら、心理学でいうところの「心身」に対し、仏教では「身心」と表示され、「身」が「心」より前にある。これはとても大事なことだとATを始めて改めて思ったのです。

 自分自身の「からだ」の声を聴くということ。そこに「こころ」が伴い「からだ」を通じて響き合う。昔から「仏法は身をかけて聞け」、「耳で聞くじゃない。全身が聴く」とか、「身が悟る」とも言われている。

 翻って、修行道場の身体教育に不満を言うのなら、強制的な指導や暴力的な言いまわしは必要ないのじゃないかと思う。かえって身心に緊張を起こさせてしまう。
 アレクサンダー・テクニークの教師のように

 「ちょっと丁寧に、今動かしている身体作法に注意(*)を払ってみましょうよ!私の手がちょこっとだけサポートしますから!」

 と一緒に実験していけるならば、その作法や形に込められた意味や精神が自ずから現れるのではないか。

 身体作法をそうさせているもの、身体作法がそうならざるおえないことが明らかになるんじゃないかと思っています。

「一緒にやってみませんか!」

「あなたはどんなふうに坐っていますか?」

「あなたの鼻の穴はどこにありますか?」

(*)〈意識する〉という言葉はアレクサンダー的にはあまり使わない。なぜなら、〈意識する〉、〈集中する〉という言葉は一方向的で内向的なイメージになってしまうから。つまり、〈注意を払う〉とは空間全体に注意を向けること。全方向で双方向、相互的なもの。沢庵禅師の『不動智神妙録』(ふどうちしんみょうろく)を参究されたし。注意を払うときの用心が記されています。「日々是用心、日々是工夫」

「坐禅させるものがあるんですよ」
(原田雪渓老師)

『アレクサンダー・テクニークと草刈り』


 前々から、取り組んでみたかった課題である。
 「私自身の使い方」と「道具の使い方」の関係。

 今回は「機械」編。
 で、「草刈り機」。

 もうすぐお盆、
 境内の草刈り作業で大活躍の「草刈り機」。

 始め、どうも、草刈り機がブンブン唸ってるだけで、ぜんぜん綺麗に草を刈れない。
 
 ちょっと自分自身を観察してみる。

 あっ!?

 手だけで振り回している感じ?

 「俺が刈っているんだ」という意識?


 ってことは?!

 からだ全体を使って、草刈りを持ってみる。
 ああ!ちょっと軽くなった?!

 回す時は、手や腕の力ではなく、股関節や膝、足に注意を向けてみる。
 ああ!回しやすい!?

 そう!実際に草を刈っているのは、草刈り機の刃だ!!
 俺じゃないんだ?!

 草刈り機の刃先に注意を向けてみる。
 おお!スムーズに刈れている!?

 俺が刈ってるんだという力みがない。その力もともといらない!?
 音も始めより静かな感じ!石にぶつかる回数も減った!?

 僕の力で、あんなに振り回さなくっても、刈れるんだ!
 もともと刃が刈ってくれていたんだなあ。

 ふり返ると、虎刈りのような残り方しない地面がそこにあった。

 あの以前のやり方は燃費も悪かったと思う。
 刃先が草を刈って行くスピードに合わせて、僕がついてゆくような感じだ。
 それは、まるで草刈り機と「リード&フォロー」のダンシング。

 次の課題は、草刈りが楽しすぎて、歌を歌いながら作業していた為、
檀家さんの「おっーさーん」の呼び声が聞こえなかったこと。

 二人?だけの世界に入ってしまっていた!!

 次回、ダンスフロアまで注意を向けて、周りの世界を思い出そう!!

      どうぜん拝