友人のお寺で定期的に刊行している読み物に一文を寄せてみた。
『禅寺で学ぶ身体作法』のワークショップの参考に。
 
 

 修行道場で身体作法を教わるときは、有無を言わさず身体に押し付けられるというか、強制的に身体で覚えさせられる。それはそれとして、頭ではなく身体にコミットしている教育法、学習方法ではあると思う。

 最近、日常の味わいにおいて(怠惰な生活習慣?!に溺れている身として)、
「(修行を)やらされながらもやれる、やらされながらもやらさしてもらっているという有難さがあったのだなあ」
 という実感がある(生来のМ気が開発されただけかも)。

 当時はそんなことは思わず、ただ「やらされている」感が強かった。だから、頭で納得してから身体で行為したいという思いが強く働いたのだと思う。今、行じている「行為の意味」を求めていたともいえる。「意味がなければ、動けない」「意味を感じながら動きたい」とも思っていた。
修行道場を離れた後、心理学の勉強、特にカウンセリングの実習において、再び身体性の重要さに気づかされました。「体得」や「体現」というような身体観、身体感覚を育てる教育観などに興味が湧くようになった。  

 「こころ」を学ぶということに対して、「こころ」だけに囚われてしまうことや、「こころ」の深みにはまりこんでしまいそうな恐怖感があったのです。さらに、それは「からだ」にも負荷をかけ、「からだ」をも壊してしまうんじゃないかと危惧しました。

 一方、「からだ」をお互いにほぐしてからカウンセリングを始めると、「聞きやすく」また「その場に居やすい」というようなことがありました。「からだ」あってこその「聞く」こと「行じる」ことだとも思いました。そして、もっと「からだ」のことについて学習しようと思い「アレクサンダー・テクニーク(AT)」という門を叩いたのです。

 アレクサンダー・テクニーク(AT)がどのようなものであるかの説明はとても難しいのですが、端折っていえば、

 「自分が何かをしようとした時にしている習慣的な筋肉緊張を緩和するための身心学習術」というような定義がいいのではないかと最近の自分は思っています。

 具体例をいうと、
 子どもが騒いている。注意をしなければならない。

 怒りの気分そのままで言おうとした瞬間、口をとがらせている自分自身に気づく。

 口をとがらせると後頭部が首を押し下げている。

 その状態に気づく。

「ああ、これが肩こりや頭痛の原因かも!?」。

 口をとがらせなくとも注意はできるのでは?!
 口をとがらせると怒りの口調になりやすのでは?!

 (そう0.5秒ぐらいで思ったとする。)

 口をとがらすのをやめてみる。

 すると静かで優しげな口調で注意できた。

 でもはっきりと子どもに届いているのは子ども全体の様子が見えていることでわかる。

 怒りで一杯な状態では言葉をぶつけるように言ってしまったり、相手との距離感などがわからなくなるものだ。

 周りの目、早く注意をしなければならいないというプレッシャーもある。

 緊張が高まっている状態だ。そんな状態に気づく。

 日本的に言うと、そこに「間」を置くことができるということだと思う。(物事はそんなに上手くいくわけないかな?(笑))。

 また、「間」には「間のび」、「間ジメ」、「間が悪い」、「間男」(笑)などの用語があります。「間」という時空間を洗練させるためにはコツや技術が必要です。
 
 ただし、上手くいくか上手くいかないかが重要ではなく、その時、いつもと違った反応や態度で居れたら、物事はどうなっていくのか、どう変化するのだろうか、やってみましょうよ!という姿勢が重要です。

 これは、AT教師が学習しているとてもユニークな教育観でもあると思います。

 「からだ」と「こころ」は切り離せない。しかしながら、心理学でいうところの「心身」に対し、仏教では「身心」と表示され、「身」が「心」より前にある。これはとても大事なことだとATを始めて改めて思ったのです。

 自分自身の「からだ」の声を聴くということ。そこに「こころ」が伴い「からだ」を通じて響き合う。昔から「仏法は身をかけて聞け」、「耳で聞くじゃない。全身が聴く」とか、「身が悟る」とも言われている。

 翻って、修行道場の身体教育に不満を言うのなら、強制的な指導や暴力的な言いまわしは必要ないのじゃないかと思う。かえって身心に緊張を起こさせてしまう。
 アレクサンダー・テクニークの教師のように

 「ちょっと丁寧に、今動かしている身体作法に注意(*)を払ってみましょうよ!私の手がちょこっとだけサポートしますから!」

 と一緒に実験していけるならば、その作法や形に込められた意味や精神が自ずから現れるのではないか。

 身体作法をそうさせているもの、身体作法がそうならざるおえないことが明らかになるんじゃないかと思っています。

「一緒にやってみませんか!」

「あなたはどんなふうに坐っていますか?」

「あなたの鼻の穴はどこにありますか?」

(*)〈意識する〉という言葉はアレクサンダー的にはあまり使わない。なぜなら、〈意識する〉、〈集中する〉という言葉は一方向的で内向的なイメージになってしまうから。つまり、〈注意を払う〉とは空間全体に注意を向けること。全方向で双方向、相互的なもの。沢庵禅師の『不動智神妙録』(ふどうちしんみょうろく)を参究されたし。注意を払うときの用心が記されています。「日々是用心、日々是工夫」

「坐禅させるものがあるんですよ」
(原田雪渓老師)