第一章「私が身体であり、身体が私である」

 泰造(仮名)さんは、「自分自身の『身体』を自分自身で『動かしたい』」という衝動が物凄い。たまに僕のワークの実験台になってくれる。

「自分で動かさなくていいんですよ」と言ってもそれを「やめてくれない」。

やっぱり他人に「動かされる」感というのは、承服できないのだろうか。

足全体を動かすことを止め、ゆっくりと静かに腿に手を置いた。

すごく張っている腿の筋肉(名前をすぐ忘れる(笑))さんがそこにいた。

僕自身もふーっと息を吐いた。

長い長い道のりを思った。

泰造さんを支えてきた70何年かの日々。

それは泰造さん自身でもあると思えてきた。

「たまには休んでも大丈夫ですよ」と思った。

すこしだけそこが緩んだ気がした。
泰造さんの表情も少し緩んだ。

もう一度、足のワークを少しした。

僕自身も一緒に「動いた」。

歩いてもらった。「ちょっといい感じがする」と言ってもらえた。


「動かす」「動かされる」の関係と「動き」の違い。「動かす」と思わず、「動かされる」と思われず、「動いている」「動きのままに」「一緒に動く」が、「動き」の一つのテーマだ。それには、ワークそのものの質の向上もあるし、それ以前の信頼関係を構築することが必要だと思った。


身体は見かけではない
身体はスペクタクルではない
身体は人に見せるものではない
その筋肉の力や
運動の大きさや
速さを人に誇示するものではない
身体は世界だ
身体は意味だ
身体は時間だ
身体は生きた経験
身体は
我々を取り巻く
無限の虚空への
解毒剤だ
(C・ペルフェッティ)


〈身体化された心〉
赤ん坊は、たえず動いて、世界を手探りしている。彼らは、たえず自分の身体を使って働きかけ、行動しながら、世界がどんなものか確かめている。ここにはわたしの小さい指があって、それでいろいろやってみる。ここには哺乳瓶がある。ここにはお母さんがいる。これはぼくの鼻で、僕の足で、それに噛みついているんだ……という風に。
(認知神経学者 F・ヴァレラ)

「認知とは世界の表象ではなく、世界を生み出すことである」(同)


 赤ちゃんには、概念化や抽象化がない。自分の身体、五感をフル回転して直接世界を掴み取る。

 最近、なるべく電灯をすぐに点けないように習慣付けている。

エコだからである?!いや、ケチだからである?!

それもある(笑)が、「見る」ということに重きを置かない訓練をしているのです。

家はお風呂に行くために、本堂の中を横切って行かなければならない。

電気代がもったいないので、懐中電灯で通っていた。
ある日の風呂帰り、懐中電灯を風呂場に忘れたのです。そして、明かりなしで本堂へ。

その時、「闇に眼が慣れてくる」ということに気づいた。

さらに、手を使い、柱を確認したり、足で段差を感じたりできることに気付いたのです。

それが、面倒くさいけれど面白いのです。

今まで、「目に」「見える」ということに頼り過ぎていたなあと。

さらに、慣れてくると、例えば、賽銭箱に足がぶつかる直前に、危険を予知する直観が働くのです。

それでもぶつかりますが(笑)
賽銭箱と足との空間(あいだ、間合い)が縮まる感じが分かるのです。

面白い。

空間を認識していても何でぶつかるのかもわかりました。

頭で予測して動くと、賽銭箱の気というか存在の波動が来るのが遅いのです。
段差も予測すると、一歩出てしまい。止まれず落ちてしまう。

そう思うと、今の高級車がコンピューターで危険を認識し、車の動作を制御してしまうのは、ある意味、人間の危険認識能力を退化させてしまう。

五感をフルに使って、闇に慣れる訓練は面白いワークになると思った。

自分自身の普段の習慣も把握しやすい。
目に重きを置くと、足下がふらつく。
見えないことによって脚下が見えるようになる?!

すぐに電気を点けない楽しみはこれからも続きそうだ。エコだし(笑)

暗闇と明かりについて面白い二つの話聞いた。
まず一つは、漁師さんの話。夜の海で漁をして迷ってしまった時は、自分たちの明かりを消し、真っ暗にすると、遠岸の灯台や港の灯りが見えて助かったという話。

もう一つは、屋内の立体駐車場の話。「屋内では必ずライトを点けてください」という注意を何故するかというと、暗いからではなく、ライトによって車が来るのが、歩行者や運転手に確認できるからという話。

面白いですね。明かりを消すことによって、見える。明かりをつけることによって、見てもらえる。

状況状況によって道具を使い分ける。道具を使えるってことは、自分自身を使うということにも通じる。

目をもっと使えばいいのだ。いろんな目を。使わないで使うということも。

武道や禅でいう「見ないで見る」「見て見ない」の境地になる日も近いはずだ(笑)